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第一章 高等部 8話 記憶の断片2

「あ」 身体が傾く。 涼は反射で手を出しかけた。 その前に、女性教員の手が涼の肩を掴んだ。 強く。 バランスを取るために、体重が乗る。 涼の背中が棚に近づいた。 女性教員の身体が、一瞬、涼に覆い被さるように前へ倒れ込む。 香水の匂い。 近い息。 制服の肩にかかる手。 身体の重さ。 ドクン、と心臓の音が聞こえた気がした。 見慣れた倉庫が、白い壁の部屋に変わっていくように感じた。 女性教員の少し茶色がかった髪が、黒髪に染まっていく。 赤い唇。 目の下の黒子。 頬に触る冷たい手。 『涼くん』と呼ぶ高い声。 視界の端が白くなる。 「ごめんなさい、大丈夫?」 女性教員はすぐに離れた。 本当に一瞬だった。 悪意などない。 事故だった。 棚の上の箱を取ろうとして、よろけただけ。 涼は頷いた。 「大丈夫です」 声は変わらなかった。 自分でも驚くほど普通だった。 「先生は?」 「平気。ごめんね、支えにしちゃって」 「いえ」 涼は棚の上へ視線を向けた。 「箱は、これですね」 「そう、それ」 「下ろします」 淡々と箱を取る。 中身を確認する。 「立て札は三つあります。来賓控室用なら足ります」 「よかった。助かったわ」 「予備は生徒会室に一つ戻しておきます」 「お願いね」 女性教員は安心したように笑った。 涼も、柔らかく笑った。 倉庫を出る頃には、もう完璧に戻っていた。 白い顔。 静かな目元。 薄い唇に乗った、乱れのない笑み。 「確認できました。立て札は足ります」 廊下にいた教師へ、涼はそう報告した。 「ありがとう、光出くん」 「いえ。予備だけ生徒会室に戻します」 「助かる」 周囲の生徒たちは何も気づかない。 涼の声はいつも通りだった。 歩き方も乱れていない。 資料も、箱も、きちんと持っている。 政輝だけが、顔を上げた。 顔色が悪い。 見た瞬間、そう思った。 涼は廊下を歩く。 生徒会室とは違う方向へ。 一度だけ、ネクタイの結び目に触れた。 直すほどではない。 緩めるほどでもない。 ただ、触れただけ。 一瞬。迷う。あれはどっちだ。 政輝は男子たちの声を背中に聞きながら、壁から離れた。 「久遠、どこ行くんだよ」 「知らねぇ」 「知らねぇってお前のことだろ」 「先やってろ」 「またかよ」 政輝は返事をしなかった。 涼の後を追う。 急ぎすぎない。 でも、見失わないように。 涼は人気のない階段へ向かった。 屋上へ続く途中の踊り場。 古い窓が一つあり、外の雨上がりの空が灰色に見える場所。 人の声は下の階に遠い。 涼は手すりに手をついた。 立っている。 まだ、立っている。 けれど指が白い。 肩がわずかに上下している。 「涼」 政輝が呼んだ。 人のいない場所だから、名前で呼んだ。 涼は振り返らない。 「来るな」 低い声だった。 外向きの声ではない。 荒くて、短い。 政輝は足を止めた。 「涼」 「来るな」 今度は少し強かった。 政輝は止まったまま、涼を見る。 涼の呼吸は浅い。 過呼吸になる手前の、ぎりぎりのところで止まっている。 「わかった」 政輝が言った。

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