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第一章 高等部 8話 記憶の断片3

涼の肩が一度だけ震える。 「……」 「近づかない」 涼は返事をしない。 政輝は一歩も近づかず、もう一度名前を呼んだ。 「涼」 その声だけ、少し柔らかかった。 「ここにいる」 涼の手が、手すりを強く握った。 「……なんで」 掠れた声。 政輝は短く息を吐く。 「俺の都合」 「勝手、だな」 「知ってる」 涼は小さく息を吐こうとした。 けれど、うまく吐けない。 胸が上がる。 喉が詰まる。 息を吸おうとして、さらに苦しくなる。 「違う」 涼が言った。 誰に言ったのか分からない。 政輝にか。 自分にか。 さっきの女教師にか。 過去にか。 「何も、」 言葉が途切れる。 息だけが乱れる。 「何も、されてない」 「知ってる」 政輝は言った。 「知ってるから、吐け」 涼は首を振る。 「……っ」 「吸うな」 「無…理っ」 「無理でも吐け」 涼の膝が少し折れた。 手すりに体重がかかる。 政輝は反射的に手を伸ばしかけた。 肩を支えようとして。 その瞬間、涼の身体がびくりと跳ねた。 政輝の手が止まる。 空気が凍る。 涼も、自分の反応に気づいた。 顔色がさらに悪くなる。 「違……」 違う。 拒みたいわけじゃない。 政輝を怖がったわけじゃない。 そう言おうとしたのだろう。 息が乱れて、言葉にならなかった。 政輝はすぐに手を引いた。 「悪い」 短く言った。 涼は首を振る。 けれど、それすらうまくできない。 「違う」と言いたい。 でも言えない。 喉が鳴る。 胸が上がる。 空気が入らない。 政輝は階段の一段下に腰を下ろした。 涼より低い位置。 触れない距離。 でも、すぐ届く場所。 「涼」 また名前を呼ぶ。 涼の目が揺れる。 「俺見ろ」 「……」 「床じゃねぇ。俺」 涼は苦しそうに瞬きをした。 視線が少しずつ政輝へ向く。 凪いだ青い瞳。 金色の髪。 いつもだるそうで、面倒くさそうで、口の悪い男。 でも今は、そこから動かない。 「いい子」 政輝は自分の手の平を上にして手すりの上に置いた。 涼の手が届く距離。 触れない。 待つ。 「お前が嫌なら触らない」 涼の喉が小さく鳴った。 「でも、そばにはいる」 その言葉に、涼の視線が揺れた。 「……まさき」 「ん」 名前を呼んだだけだった。 けれど、政輝はちゃんと返事をした。 それで少しだけ、涼の呼吸が落ちた。 落ちたと言っても、まだ浅い。 まだ速い。 それでも、さっきよりは少しだけ違った。 「手、そこ」 涼が掠れた声で言った。 政輝は自分の手を動かさない。 「ここ」 涼の指が、手すりから離れる。 震えながら、少しずつ政輝の方へ向かう。 ようやく、政輝の指先に触れた。 冷たい。 政輝はすぐには握らなかった。 涼の指がもう少し重なるのを待つ。 許可だと分かってから、軽く指を返した。 握るのではなく、そこにいると知らせる程度に。 「吐け」 涼の肩が震える。 「……っ、は」 細い息が抜けた。 「もう一回」 「うる、さい」 「いいから」 涼は目を伏せる。 もう一度、息を吐く。 少しだけ空気が戻る。 階段の窓から、湿った風が入ってきた。 下の階では、まだ文化祭準備の声がしている。 机を動かす音。 誰かの笑い声。 教師の注意する声。 その全部が、遠かった。 ここだけが、校舎の中から少し外れていた。 涼は階段に腰を下ろした。 壁に背を預ける。 顔色はまだ悪い。 額には薄く汗が浮いている。 けれど、呼吸は少しずつ戻ってきていた。 政輝は隣ではなく、一段下に座ったままだった。 触れているのは、指先だけ。 それ以上はしない。 涼が望むまで。 しばらくして、涼が口を開いた。 「……悪い」 政輝は眉を寄せる。 「聞き飽きた」 涼が少しだけ睨む。 「性格が悪い」 「今さらだろ」 涼は黙った。 政輝も黙る。 少しして、政輝が言った。 「次は、嫌なら待つ」 涼が目を上げる。 「次がある前提か」 「さぁな」 「…まぁ、だろうな」 涼が目を逸らしながら、苦く笑う。 政輝はそれを眺める。 「…何回あっても、ちゃんと戻るまでいる」 涼は政輝に視線を戻した。 それから、ほんの少しだけ息を吐く。 「そうか」 「忠犬だろ」 「調子に乗るな」 「褒めてんのか」 「違う」 会話が少し戻る。 政輝はそこで、ようやく肩の力を抜いた。 涼は壁に頭を預ける。 「先生は悪くない」 「あぁ」 「何もされてない」 「知ってる」 「…嫌だな」 涼は言葉を止めた。 自分の身体の反応を、疎ましく思っている顔だった。 政輝は返事をしなかった。 今は何を言っても、涼にとっては重荷になることを理解していた。 涼の指先だけが、まだ政輝に触れている。 離そうと思えば離せる。 けれど、離さない。 そのまま、少しだけ時間が過ぎた。 やがて涼が、ゆっくり立ち上がろうとした。 政輝は動きかけて、止まる。 今度はすぐに触れない。 涼を見る。 涼もそれに気づいた。 一瞬、政輝の手を見る。 それから、短く言う。 「手」 政輝は手を差し出した。

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