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第一章 高等部 9話 はじめて遊ぶ日1
七月に入って、最初の週だった。
朝から暑かった。
教室に入った瞬間に少し嫌になるくらい、空気がこもっていた。窓は開いていたけれど、風がない。机の木の匂いと、昨日濡らした雑巾の匂いと、誰かの汗の匂いが、薄く混ざっている。
政輝は窓側の一番後ろの席に座った。
鞄を机の横へ掛けて、椅子に背中を預ける。
前の少し左に、光出が座っていた。
最近、なんとなく見ている。
理由はよく分からなかった。
ただ、キーホルダーの件があってから、目が向くようになった。光出が何かをする前の顔。誰かに呼ばれた時の間。笑っている時と、少し疲れている時の違い。
最初は全部同じに見えた。
でも、見ていると少しずつ違うことが分かってくる。
今日の光出は、少し静かだった。
朝、友達に話しかけられて、普通に返していた。
「涼、今日飼育当番だっけ」
「うん。朝は見たよ」
「ウサギ元気?」
「元気。亀は少し遅い」
笑っていた。
いつもみたいに。
でも、返事をするまでに少し間があった。
飼育棚を見る時間も、いつもより少し長かった。ウサギの頭を軽く撫でて、亀の水槽を覗き込んで、そのまま少しぼうっとしていた。
眠いのかもしれない。
疲れているのかもしれない。
なんでかは知らない。
でも、多分そうだと思った。
一時間目、先生が話している間も、光出はちゃんと黒板を見ていた。
ノートも取っていた。指名されれば答える。
隣の席の子が困っていれば、小さな声で教える。
普通だった。
普通に見える。
だから、誰も気づかない。
昼休みに入ったところで、教室が少し騒がしくなった。
「ない」
女子が一人、机の前でプリントを探していた。
筆箱を開けて、教科書を出して、机の中を覗く。今日提出のプリントらしかった。先生が厳しいやつだと聞こえた。
周りが少し集まる。
「鞄は?」
「見た」
「机の中は?」
「ない」
「忘れたんじゃない?」
「持ってきた。朝あった」
その声が少し焦り始める。
政輝は、反射みたいに光出を見た。
光出はその様子を見ていた。
少し考えている顔だった。
最近、その顔が分かるようになってきた。
あと数秒で立つ顔。
誰かを責める空気になる前に、「探そう」と言う顔。
政輝は椅子を引いた。
自分でも、少し驚いた。
なぜ立ったのか、その時はよく分からなかった。
ただ、朝、先生が教室の前を歩いた時に、紙が棚の上へ落ちるのを見ていた。先生が集めたプリントの束から、一枚だけ滑った。多分、あれだ。
それだけだった。
棚の上を見ると、紙が一枚あった。
取って、戻る。
「これ」
女子が顔を上げた。
「……え」
「多分、それ」
「ありがとう」
「別に」
それで終わった。
プリントは見つかった。周りもすぐに散った。教室はいつもみたいに騒がしくなる。
政輝は自分の席に戻ろうとした。
少しして、椅子を引く音がした。
光出が立っていた。
こちらへ来る。
「久遠くん」
「なに」
「ありがとう」
普通に言った。
いつもみたいに。
「……別に」
「うん」
光出は少し笑った。
「でも、ありがとう」
それだけだった。
光出は飼育棚の方へ戻って、ウサギを見ていた。
政輝は少し止まった。
なんで二回言うのか分からなかった。
別に、大したことはしていない。
見えていたものを取っただけだった。
でも、光出が立たずに済んだ。
それだけで、なんとなく胸の奥の小さな引っかかりが取れた気がした。
五時間目、先生が前で話していた。
暑くて、眠かった。
黒板の文字は見えているけれど、頭にはあまり入ってこない。
前の少し左に、光出の背中が見える。
さっきの「ありがとう」が、まだ少し残っていた。
助かった、でもない。
偉い、でもない。
ただ、ありがとう。
重くない。
恩にしない。
でも、なかったことにもされない。
だから余計に、残った。
政輝は頬杖をついたまま、ぼんやり思う。
光出は放っておくと、立つ。
誰かが困っていたら、動く。
今日は少し疲れているように見えたのに、多分、放っておいたら動いた。
だから、先に動いた。
それだけだった。
それだけのはずだった。
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