44 / 47
第一章 高等部 9話 はじめて遊ぶ日4
九月になった。
夏休みが終わり、教室の空気は少しだけ変わっていた。
窓から入る風はまだ暑いけれど、息が詰まるほどではない。
校庭の木の影も少し伸びている。
昼休みの教室で、光出は飼育棚の前に立っていた。
ウサギは丸まって寝ていた。
亀は動いている。
「昨日より元気そう」
光出が小さく言った。
政輝は窓際の一番後ろで、英語の本を読んでいた。
聞こえた。
聞こえただけだった。
最近、光出に話しかけられることが増えた。
最初は、何を読んでいるのか聞かれた。
次は、英語の単語を一つ聞かれた。
その次は、亀が昨日より動いているという話をされた。
意味は分からない。
でも、嫌ではなかった。
むしろ。
光出がこちらを見た。
少し考えてから、歩いてくる。
「久遠くん」
返事が少し遅れた。
「何」
「何を読んでるの」
政輝は本を少し持ち上げて見せた。
英語の本。
光出は表紙を見る。
「難しそう」
「英語だと普通」
「そっか」
光出は机を少し覗いた。
「面白い?」
「普通」
「前も普通って言ってた」
「普通だから」
「面白いって言わないんだ」
「別に」
少し間があった。
教室の中はいつも通りうるさい。
でも、光出と話しているところだけ、少し音が違った。
「光出」
政輝が言った。
光出が顔を上げる。
「うん」
「亀、今日元気だな」
光出は振り返って飼育棚を見る。
少し笑った。
「うん。今日は元気。昨日は朝、ちょっと寝てたよ」
「ふうん」
「久遠くん、見てたの?」
「見えた」
「そっか」
光出は嬉しそうというほどではない。
でも、少しだけ柔らかい顔をした。
静かになった。
前みたいな変な静けさではなかった。
嫌じゃなかった。
「光出」
「うん」
「外、行かないの」
窓の向こうに、友達が走っているのが見えた。
「あとで。久遠くんは?」
「別に」
いつもの返し方だった。
光出は少し笑った。
「最近」
「何」
「前より話してくれる」
政輝は本のページに視線を戻した。
「そう」
「うん」
「気のせい」
「そうかなぁ」
「そう」
光出は少し困ったみたいな顔をした。
珍しい顔だった。
その時、教室の前から声が飛んできた。
「涼! 鬼やるぞ、来い!」
友達が二人、手を振っている。
光出は振り返った。
「あ」
それから、政輝を見る。
「久遠くん、行く?」
前なら断っていたと思う。
暑い。
面倒。
外へ出る理由がない。
そう思うはずだった。
でも最近、少し違った。
光出が誘うと、断る理由を探すより先に、少し考えるようになった。
政輝は窓の外を見た。
校庭はまだ暑そうだった。
でも風があった。
「……別に、いいけど」
光出の目が少しだけ開く。
「ほんと?」
「なんで」
「なんとなく」
「意味分かんねぇ」
光出は少し笑った。
「じゃあ行こう」
校庭はまだ暑かった。
でも、七月よりは楽だった。
鬼が二人になって、始まった。
走って、逃げて、声が飛ぶ。
光出は走るのが上手かった。
速いだけではない。
人と人の間を抜けるのがうまい。
方向を変える時、身体がほとんどぶれない。
校庭の砂を蹴る足も軽い。
それに、楽しそうだった。
本当に。
光出は走るのが好きなのだと思った。
家の先生とか、会食とか、そういうものと関係ないところで、ただ走っている。
それは少し、見ていて悪くなかった。
「久遠くん」
横に並んだ光出が言った。
「速いね」
政輝は前を見たまま返す。
「別に」
「速いよ。僕より速い」
「ねぇよ」
「あるよ」
政輝は少しだけ困った。
褒められるのが、妙に落ち着かなかった。
光出は普通に言う。
見栄もなく、気遣いでもなく、思ったことをそのまま口にする。
だからなんだか、変な気分だった。
「次、お前鬼な」
政輝は言った。
「え」
「頑張れ」
それだけ言って走った。
後ろで、光出が少し止まる気配がした。
それから、笑った声が聞こえた。
「ずるいな」
「聞こえねぇ」
「聞こえてるだろ」
政輝は振り返らずに走った。
胸の奥が、少しだけ軽くて、耳が少し熱をもっている気がした。
ともだちにシェアしよう!

