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知らないまま

あれから数日が経った。 ラナンキュラスの花びらは半分以上散っていた。 十日ほど持つと言っていたから、そろそろ寿命が近付いてきている。 それでも捨てる気にはなれず、デスクの端へ置いたままにしている。 仕事を終え、腕時計は視線を落とした。 待ち合わせまではあと三十分。 今日は元恋人と会う約束をしていた。 待ち合わせ場所は昔よく通っていたバーだった。 店の扉を開くと、すでに彼女は来ていた。 窓際の席で手を振る姿は、記憶の中とほとんど変わらない。 「久しぶり」 「久しぶり」 向かいへ腰を下ろす。 最後に会ったのはいつだっただろう。 思い出せないくらいには時間が経っていた。 注文を取りに来たバーテンダーがこちらを見るなり、驚いたように目を見開いていた。 「珍しいですね」 そう言ってどこか懐かしそうに笑った。 どうやら覚えていたらしい。 「そりゃ覚えますよね」 元恋人も苦笑いする。 昔はよくここへ来ていた。 仕事終わりに待ち合わせて、閉店まで居座ることもあった。 思い出話に花が咲く。 会話は途切れない。 楽しくないわけでもなかった。 けれど、胸が高鳴ることもなかった。 思い出話も盛り上がってきたところで、店の扉が開く。 何気なく視線を向けた先で、見覚えのある髪色が揺れた。 見間違えるはずがない、ミルクティー色の髪。 友人らしき人物と並んで入ってきた澪は、店員に案内されるまま奥の席へと向かっていく。 どうやらこちらには気付いていないらしい。 澪の背中を追うように視線を向ける。 向かいの男となにか話しているのか、時折楽しそうに笑っていた。 その様子を見ながら、柊はグラスへ口をつける。 「知り合い?」 不意に元恋人が尋ねた。 どうやら視線の先に気付いていたみたいだった。 「知り合い」 短く答える。 それでも視線は戻せないままだった。 「仲良さそう」 元恋人が何気なく言う。 自分もそう思った。 それなのに胸の奥が少しだけざわついた。 理由は分からない。 分からないまま、もう一度視線を向けたところで澪が顔を上げる。 一瞬だけ視線がぶつかった。 澪は驚いたように目を見開き、それから小さく瞬きをする。 「本当に知り合いなんだ」 元恋人が面白そうに笑う。 けれど、それ以降も気付けば奥の席へ視線が向いていた。 澪はこちらへ来ることもなく、向かいの男と話を続けている。 時折笑って、グラスを傾けて。 それだけなのになぜか妙に気になった。 普段あまりアルコールが回ることはないけれど、なぜかこの日は酔いが回るのが早かった。 気付けば澪たちはすでに店をあとにしていて、奥の席だけがぽつんと空いている。 「珍しい」 不意に元恋人が笑う。 「なにが」 「ずっと知り合いの人のこと見てた」 思わず言葉に詰まる。 そんなつもりはなかった。 けれど否定しきれないくらいには視線を向けていた気はする。 「見てない」 「ふーん?じゃあさ」 言葉を切る。 「この後わたしにだけ時間使ってよ」 冗談みたいな口調だった。 けれど断る理由もない。 「別にいいけど」 そう答えた瞬間、不意に天馬の台本の一節が頭を過った。 ――なにもない時間に思い出すなら、好きなんじゃない? あの時は適当に流した。 それなのに、なぜか今になって思い出す。 「どうしたの?」 元恋人の声に顔を上げる。 「べつに」 考えるのをやめるように、最後の一口をぐいっと飲み干す。 それからそのまま会計を済ませると、元恋人は自然な仕草で腕を絡めてきた。 バーを出て少し歩いたところに賑わいを見せるホテル街。 そのまま近くのホテルへと足を向けた。 部屋へ入るとドアが閉まると同時にロックがかかる。 その静かな音と共に元恋人を壁まで引き寄せると、お互いの唇が自然と重なっていく。 そのままベッドへ押し倒そうと思った瞬間だった。 「柊もまだわたしのこと好きでいてくれてるんだ」 その言葉に動きが止まった。 「……なんでそう思うの」 気付けばそう聞いていた。 元恋人は不思議そうに首を傾げている。 「だって会いに来てくれたし、今だってこうやって触れてくれてる」 当たり前のような返事だった。 好きを確かめるために来たのに、余計わからなくなっていた。 「それで好きになるの」 「じゃあわたしのこと好きじゃないの」 その言葉に答えることができなかった。 嫌いではない。 けれど好きだと頷くこともできない。 元恋人はそんな柊を見て、小さく笑う。 「やっぱり柊って……最低だよ」 どこか呆れたような、それでいて懐かしむような笑い方だった。 「でもね」 元恋人は少し寂しそうに笑う。 「もしこの先、好きがわかるようになった時」 そう言いながら頬へ手を伸ばしてくる。 指先がそっと触れた。 「次こそはちゃんと大事にしてあげなね」 その言葉に返事はできなかった。 初めて自分が誰かを傷つけていたのだと知った。

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