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「リ、リオン……っ」
ごめんなさいと謝ればいいのか、ありがとうとお礼をするのが先か、ともかく混乱してしまって何を言うべきかわからない、と上擦って震えるアデラの声が、最初に俺の耳を打つ。
そんな彼女に声を掛けて安心させてやりたいのはやまやまだが、いかに侯爵家令嬢、かつ俺の婚約者とはいえ、この場で最も優先されるべき人物だとは言えなかった。
ここでの主は、聖女・ローズだ。
俺はすっかり空になった水差しを胸元に携えると、聖女の視界に入りやすい位置まで足を進めてから、騎士の礼を捧げた。当然ながらローズは驚き、声を発する。
「えっ? あ、あなたはいつ、どこから、……えっ?」
「不躾に場を荒らしてしまい、申し訳ありません。危急の事態と判断し、お声掛けなくお傍に馳せ参じた次第です。聖女様」
「い、いえ……。あの、ええと、そうね。ともかくあなた、すっごく、水浸しよね……?」
大丈夫……? と心配げに眉を寄せながら、ローズは俺に手巾を差し出す。そうしてから、困ったようにおろおろと周囲を見回した。
「ああ、でも、こんな手巾だと顔を拭くだけで終わりよね。な、なにか大きめの布とかって、ないのかな……」
そう言って自ら腰を上げようとする彼女は、なるほど平民育ちそのものだ。
もしいま、この場に座しているのがアデラだったなら、彼女は傍らに控える執事あたりに目線を当て、「拭くものを」とスマートに命じてみせるだろう。
とはいえ、さすがに王城勤めの執事やメイドは、どれほど不慣れな主人であってもフォローは完璧だ。
執事はにこやかに笑み、さりげない所作でローズを椅子へ座り直させる。そしておそらく先んじて執事から目配せでも受けていたのだろうメイド二人が、大判のタオルを携えて俺の元へ傅いていた。……まったくもって断る隙がない。
いや、ここでやたらに固辞するのも失礼か? 俺は自分の身分を忘れがちだが、これでも公爵家嫡男である。
おそらくこの場では、聖女に次いで地位が高いのだ。
前世で二十一世紀の日本を生きていた俺は、つい、そんな序列になんの意味があるっていうんだ、と思ってしまいがちだが、まあこれこそ『郷に入っては郷に従え』だった。
この世界で生きている以上、守るべきルールはある。厳然とした秩序を蔑ろにするとなると、いらぬリスクを抱えることになるのだ。
――よし、心頭滅却しよう。
俺はひとまず骨董品のでかい花瓶にでもなった気分で、自前の金色の髪、そして身に纏う真っ白な騎士服からあらかたの水分が取り去られてゆくのを待つ。
「ええと、つまり……何が起きたの?」
どうにか場が落ち着くと、聖女はピンク色の長い髪へ自身の指を添え、ガゼボに居合わせている面々を見渡した。
すべては彼女の背後で起きたこと。ローズの疑問も、ごもっともだ。
「わっわたくしが……!」
俺の手を取って立ち上がるなり、アデラは変わらぬ真っ青な顔のまま、聖女の前へと歩み出る。彼女の体の震えを拾った深紅の髪が、その背に小さく揺れていた。
「わたくしが、失態を、犯したのです。リオンはそれを庇って下さったのですわ。わ、わたくしはせき、責任を取りまして、聖女様のお付きから、退きたく存じます……」
「えええ待って、アデラ、泣かないで。辞めちゃうって、どうして? せっかく仲良くなれたのに」
「な、仲良くなど、恐れ多いのですわ……! わたくしは危うく、ローズ様を、水浸しにするところだったのです。リオンのように、ずぶ濡れのねずみに」
ねずみ?
俺っていま、そんなに見るに堪えない感じになってるんか。まあ、いいけど。
「でも、ならなかったわ。でしょ? それに、アデラ。あなたはわざとそうしようとしたわけじゃないのよね?」
「もちろんですわ……!」
聖女から誠意を問われ、勢い込んで、アデラは頷く。彼女は自身の両手をしっかと握り合わせ、ローズの瞳を必死に見つめながら、何度も頷いた。
けれど――本来のアデラは、それこそわざと聖女の頭上に水差しの水をぶちまけさせるのだ。
(悪役令嬢アデラ・ビゼー)
自身より身分の低い侍女たちをいいように従わせ、また、抜け目なく王族の一人を味方に付けた上で、彼女はこの王女宮にて平民上がりの聖女を苛め倒す。
侯爵家に生まれたアデラは、本来であれば、それはもうがっちがちの血統史上主義者として育つのだった。
ローズがいかに聖女として見出されたとしても、生まれを問えば、ただの平民。そのへんの町娘が王城に上がることなど、彼女にとっては到底許せることではなかった。
だが、いまのアデラが抱える思いと言えば――きっとひたすらに、自省の念だけだろう。
「わたくしは決して、決して、ローズ様を害しようなどと考えたりは致しません。ですが、わたくしにはやはり、ローズ様の侍女を務めるだけの能力が無いのですわ……。どんなに頑張っても、一生懸命やっていても、こうしてとんでもない失態を犯すのです。このままではいずれ、ローズ様の身に危害が及んでしまいます……っ」
「アデラ。誰だって失敗はするんだよ? もしも水を被っていたって、わたしなら大丈夫。ねえ、アデラ。あなたはこのお城で初めて出来た、わたしの大事なお友達なんだよ」
聖女の身を深く案じ、栄誉ある職務から自ら退こうとするアデラを、彼女の肩をしっかりと掴み、涙に潤む瞳を覗き込みながら、聖女は「だからこれからも、傍にいてほしいな」と懸命に言葉を尽くして引き留めようとしている。
なんとも微笑ましい光景だ。
二人の間にすでに確たる友情が築かれていることがわかって、濡れねずみの俺は内心、ほっと息を吐く。
もともと悪役令嬢としてデザインされているゆえに、アデラはとにかく悪い誤解を受けやすいのだ。華やかな赤髪の美人ではあるのだが、その容貌にはどうしても威圧感が伴ってしまう。
そして、そんな見た目に反して、現在のアデラはおよそ身分の高さにそぐわないほど心優しい令嬢に育っていた。
……だからこそ、彼女をいいように貶めようとする輩がいないとも限らない、と俺はかねてより危惧していたのだった。
アデラはまじで、世間知らずの箱入り令嬢なんだぞ。
本人にまったくそのつもりがなくても、良からぬ輩によって「聖女苛めを扇動する悪役令嬢」に仕立て上げられでもしたら、場合によっては彼女は『ヒストリア』のストーリーそのままに断罪され、王城から追放されかねない。
けれど、俺のそんな心配は、見事に杞憂に終わったのだ。
互いの手を取り合って微笑む、アデラとローズ。そんな二人のようすを見ていれば、アデラが悪役令嬢としての道を歩み出すことなど万が一にもない、と信じることは容易だった。
「なにを騒いでいる?」
――声が、した。ガゼボの外側から投げ掛けられる、男の声だ。
俺は、この声を知っていた。
「……あなたは?」
ガゼボの外を見遣り、ローズが誰何の声を上げる。
石造りの真っ白なガゼボには、陽差し除けのためだろう、屋根から幾筋もの水が滴り落ちていた。薄氷のような膜になったり、柔らかな滝のようになったりしながら、清き水は相手の姿を絶妙に覆い隠す。
私か、と男の声が答えた。
「私はシルヴァン。シルヴァン・オリオール=デュラフォア。この国の第三王子だ」
それは間違いなく、俺の声だった。――前世の自分、声優・川嶋穂高がアニメ第一話のために吹き込んだ、キャラクターボイスそのものだったのだ。
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