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2  公爵家子息リオン・ル・リッシュこと俺が前世の記憶を取り戻したのは、五歳の時だ。  きっかけは、わりとダイレクトなものだった。乳母や弟妹たちと屋敷の庭で過ごしていた昼下がり、うとうととしたお昼寝の最中に夢を見たのだ。――二十一世紀の日本で、曲がりなりにも若手声優として生計を立てている、自分の姿を。 (声優……)  ゆっくりと瞼を持ち上げると、きらきらと目映い春の陽差しが、リオンの蒼い瞳に降り注ぐ。風が流れて、金色の髪を柔らかく掻き混ぜた。  小さな背中を預けた大樹からは、静かで力強い感触が伝わってくる。風に踊る木洩れ陽と、どこまでも広がる青い空。まるで、アニメが描く世界のように。  アニメーション。  声優。  俺は愕然とした。  そんなもの、この世界には、存在しない。――子供に与えられる娯楽と言えば、大きな挿画付きの本がせいぜい。映像作品どころか、写真の技術すらないのだ。 (俺は) (もう、二度と)  声優の仕事は、出来ないのか。  川嶋穂高は三十一歳だった。デビューからはちょうど十年。初めて、テレビアニメでの主役が決まり――その第一話の放映日に、あっけなく事故死した。  俺はまだ、俺の演じたシルヴァンを、この目で見られてもいないし、この耳に聴けてすらいない。  そんなことって、あるのか。  ようやく、名前のある役がコンスタントに取れるように、なったんだ。  結果待ちのオーディションは三つあった。来週には、また新しいサンプルボイスを録って、それもオーディションに出すつもりで。  来月の、登壇イベントは?  近々録るはずだった、アプリゲーム用の新曲と新規ボイス。ドラマCDでの当て馬役。今日受け取ったばかりの真新しい台本。  去年のアニメでサブキャラクターの生徒会メンバーを演じた作品もある。原作小説の新刊が出てたから、読もうと思ってた。アニメの二期があれば、俺が演じたキャラクターはちゃんと活躍するんだ。  この台詞をどう言おうか、そんなふうに考えながら読む原作は、まるで文字が躍るように見える。白と黒の紙面から活字がふわりと浮き上がって、色彩鮮やかなアニメのシーンを形作ってゆく。想像力は無限だ。  俺はもっと演じるはずだった。  もっと、もっと、演じたかったんだ。  なのに、……こんなことって、あるのか。神様。 「リオン様!? どうなされましたか……!?」  ただ静かに、ほとほとと大粒の涙を落とす俺のようすに気が付いて、乳母が慌てたようにこちらへやって来る。  五歳の子供がすべての表情を失って慟哭するさまは、それはまあ不気味だったことだろう。  俺は彼女の腕に抱き上げられ、自分の部屋のベッドに寝かされた。「いまお医者さんが来てくれますからね」。医者など役に立つものか。物も言えぬまま、ただ壊れた人形のように泣き続けた。  世界のすべてが水になったかのように、息をすれば、涙が落ちる。  自分の涙に溺れるような心地だった。  むしろ水没したっていい。  この世界には、アニメも、声優の仕事も、なんにもないんだ。 (ああ) (それでも)  演じることだけは、俺のもとにある。  涙が止まっても、ベッドを起き出す気力がない。虚ろな日々を過ごす俺のところへ、弟妹たちは絵本を運んで来た。子供の娯楽はそれしかないからだ。きょうだいたちは「読んで」とねだるわけでもなかったが、俺は機械的にページを開く。  五歳のリオンですら、とうに読み飽きた英雄譚。  つまらない文章ばかりの詰まったそれが、ある日ふと、ふいにきらりときらめくような気がした。……俺の声で読みたい、と、そう思ったからだ。 「――さあみんな、英雄の話をしよう」  冒頭の一文を声に出す。もちろん、ただだけだ。小学生が国語の授業ですることと、なんら変わりない。  それでも、自分の内側でことり、と音が立つのがわかった。  そのかすかな音に勇気づけられて、次の一文は、少しだけ声音を高くする。 「長老さま長老さま、今日は、なんのお話?」 「そうさのう。みんなの大好きな、太陽の国からやってきた戦士のお話が良いと思うが、どうじゃな?」 「戦士さまがやって来るの?」 「太陽の国って、なあに?」 「おやおや、新入りの子が多いようじゃな。では順番に、ひとつずつ、ゆっくりとお話していこう」  最初の一ページをすべて読み終えると、わずかに息が上がっていた。当たり前だが、五歳のリオンには発声術が一つも身に付いていない。たったこれだけの会話文なのに、お腹から声を出すことを意識すると、あっという間に体が音を上げてしまう。まあ、腹筋もろくに付いてないしな。  五歳児が筋トレを始めてもいいのかどうかは、後でそれとなく確認を取ることにする。 (というか致命的に、この声はバリエーションがないな……)  絵本の中身は、聞き手の子供たちと話し手の長老の会話形式。もちろん、子供たちの声は得意だ。だが、長老の声色がまるでさまにならない。  リオンが変声期を迎えるのは……十年後くらいか。長い。  だがいまはともかく、「太陽の戦士のお話」くらいは最後まで安定して読めるようになりたい、と思った。  それが俺の、生きる理由になった。 「リオン兄様! 次、次はこれ! このご本を、読んでほしいの!」  暇さえあれば黙々と絵本を音読する(矛盾が発生しているが意図を察してもらいたい)ようになったリオンを、無邪気に歓迎したのは弟妹たちだ。双子の弟たちは一つ下、妹は三つ下。妹はまだ幼すぎて、絵本の内容までは理解出来ていなかっただろう。それでも「きょうだいがみんないっしょにいる」ことが楽しいのだ、というように、彼女は可愛らしい笑い声をたくさん聞かせてくれた。  弟たちは順番を争うようにそれぞれお気に入りの本を持って来ては、俺の目の前という特等席で音読を聞く。  なんか面白いことやってるらしいじゃん、と物見高いいとこがその輪に加わるようになったのは、半年後だ。俺より一つ歳上の彼――エリクは、絵本の中の役柄が増えすぎた時には、いくつかの役を代わりに読んでくれさえした。シンプルに良いやつなのだ。  リオンが六歳を迎えると、『読み聞かせ会』にはアデラも加わるようになった。  さらに時が経ち、弟妹たちも絵本を卒業する頃には、俺の特技は「家庭教師たちの声真似」へと進化(いや、退化か?)する。まあ、アデラや妹はさほど喜びはしなかったが、俺と同じテンションで声真似を披露してくれる良いやつ代表・エリクと弟たちは、転げ回って笑った。  俺はただ、どんな形であれ演じていたかっただけだ。  だが冷静になってみると、ここ『ヒストリア』の世界において、アデラは悪役令嬢、そしてエリクはそんなアデラにそそのかされて聖女に暴挙を働こうとし、未遂のうちに捕らえられるものの、そのまま家ごと失墜する悪役モブの一人だった可能性が高い。……なんというか、ものすごくそんな気がしてならない。  エリク本人はいまや普通の良いやつだが、あいつの家はわりとろくでもない家である。  うちとは血筋が近い彼の家は、いつでも常に、執拗に、リッシュ家のポストを奪おうと策を練っているのだ。末弟のエリクは親、それに歳の離れた兄から命じられ、リッシュ家の内状をなにか一つでも探って来いと、子供ながらに偵察の任を持って我が家へ送り込まれていたらしい。  最初に俺たちきょうだいの輪に加わって来た時、エリクはなんとも厭味ったらしく嗤う子供だった。

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