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『リオン様!? どうなされましたか……!?』  昔、五歳の幼児だった頃の俺は、ただ乳母に抱き上げられるのを待っていればそれで良かった。だが、現在はすでに成人した身だ。  ちっとも止まらない涙を持て余しながら、俺の体はそれでも、真夏の朝にうっすらと吹く風くらいささやかな理性を取り戻した脳からの命令を受け、どうにか膝を持ち上げようとしている。 「リ、リオン……どう、なされましたの……」  アデラが俺の顔を覗き込む。心優しい婚約者は、動揺と心配にその声音を震わせていた。  そして彼女と同時に、聖女・ローズも異変に気が付いたようだ。無論、彼女を取り巻くメイドたちや執事も同様だろう。……となれば、ガゼボの外に立つシルヴァン第三王子も、ほどなくこちらの状況に気を止めざるを得なくなる。 「大丈夫だ」 「大丈夫には、見えないのですわ。リオン……」  涙を止めるのは、後でいい。  ともかく俺は、すぐにでもこの場を立ち去らねばならなかった。 「アデラ。どうか心配しないでくれ。――俺は、勤務に戻るよ」 「ですが……、リオン」  よろめく俺の体を支えようと、アデラはそっと手を添えてくれる。  俺は呆然とこちらを見ているようすの聖女へと向き直り、自分の退出を告げるため、騎士の礼を捧げた。えらくしゃくり上げながらだし、まるで形になっていないことはわかるが、構っている場合じゃない。 「聖女様。私は、こちらで失礼いたします……」 「その隊服、近衛隊の騎士か」 「!」  俺の正面に当たる位置、そこだけは屋根から落ちてくる水の帳も途切れた箇所から、シルヴァンがガゼボの中へと踏み込もうとしていた。  投げ掛けられた声音が礫そのものだったかのように、俺の額で強く弾ける。がん、と視界が揺れた。その衝撃で、また、ばらばらっと涙が落ちてゆく。  シルヴァンはおそらく、俺の表情にふと目を止めた――ような仕種が、涙に沈んだ俺の視界にわかる。 「……泣いているのか?」  いません。頼む。俺は泣いてないし、ここにも居ない。そういうことにしてくれ。見逃してくれ。 「ローズ、この騎士は?」 「えっ……と、わたしにも、ちょっとよくわからないって言うか……。あっあの、助けてはいただいたので、悪い人ではないです。きっと、良い方です」 「知り合いではないのか? ならばなぜ、茶会に同席させている? そもそも、彼がずぶ濡れである理由は?」 「ええーとそれは、ちょっとした事故があったって言うか」 「要領を得ん」  シルヴァンはざっくりとローズの言葉を切り捨てる。「すみません」と小さく縮こまるようにして、ローズが謝っていた。いや、待て。  ――これから運命の恋に落ちるだろう二人の、最初の会話が、それなのか? (でも、そうだ)  本来のこのシーン、聖女は悪役令嬢に水をぶちまけられた直後で――ずぶ濡れなのは、彼女だったはずなんだ。  メイドも執事も、すでに悪役令嬢に掌握された後。だからこそ、可哀想なローズのために誰かがタオルを差し出してくれる、といったことすらない。  そして、濡れねずみの聖女を席に着かせたまま、素知らぬ顔でティータイムは始まる。  シルヴァンはその光景を目にして、「何をしている」と声を掛けるんだ。  とはいえ、聖女とてただの女ではない。  王子が発した、場を咎めるような厳しい問い掛けにも、彼女はにっこりと笑顔を返す。「見てのとおり、お茶の時間なんです」。ローズは、自身に仕掛けられた聖女苛めに対し、真っ向から立ち向かうことを決めたのだ。 『お茶の時間? ではなぜ、君はずぶ濡れなんだ……』 『あ、そう見えます? 確かに、ちょっとヘアスタイルは崩れちゃったかも。でも、風が通るたびにとっても涼しくて、けっこうこれ、快適なんですよ』  胸の内に闘志を燃やしたローズにとって、地位の高い、権力を持った男性にただ助けを求めるのは、己の矜持を投げ打つのと同じだった。……血筋だの家柄だの、権威を笠に着る悪役令嬢と同じ穴のムジナになど、誰がなってやるものか。  さすが、二十五年の長きに渡って愛されるゲームだけある。  原作のローズは、プレイヤーたちから深く慕われるに足る、本当の意味での戦うヒロインだ。  シルヴァンは、そんなローズの強さに惹かれてゆく。――その、はずだったのに。 「王女宮の騎士ということは、第二隊だな。名を答えろ」  俺の目前にまで歩み寄った第三王子は、上官の口調で詰問した。  事実、ぜんぶで五つの隊に分かれている王城騎士団近衛隊をすべて統率する総隊長(トップ)は、シルヴァンだ。 「リ……リオン・ル・リッシュ、です、殿下」 「リッシュ公爵家の嫡男か」 「……」  そうです、と一言応えて返すことすら出来ずに、俺の体躯はずるりと傾いだ。嗚咽が喉を突き、そのせいで息が苦しい。どうやら泣きすぎていて、頭蓋をがつがつと殴られるようなひどい頭痛にも襲われ始めていた。瞬きのたびに落ちる涙がうっとうしい。だが、どうにもならない……。  アデラが慌てたようにして、俺の肩に添えた自身の手に力を込めてくれる。今日初めて水差しの重さを知ったばかりの令嬢に、痩躯とは言え成人男性の身など、どうあっても手に余りすぎるはずだろう。わかっているのに、もう体に力を入れられなかった。  割れてしまいそうに痛む心臓を片手で鷲掴みにしたまま、俺は再び、床へ崩れてゆく。  その片腕を、強い力が掴み取った。 「答えろ」  なぜ泣く? と、シルヴァン第三王子が問う。  頼む。空気を読んでくれよ、王子様。  普通、ここまでようすのおかしい大人のことは、いったんそっとしておくもんだ。藪をつつけば蛇が出る。誰だって、見るからにややこしい事情を抱えていることが明らかな相手には関わりたくないだろう。  だが、俺の腕を取る王子様は、頑として引こうとしない。こちらの体がさらに床へと近付くのさえ許さず、ぐいと力任せに腕を上げさせる。なんだこの馬鹿力。  どうせ涙で視界などないが、俺はどうにか顔を上げた。最初に逃げ出せなかった時点で、すでにこの身はまな板の上の鯉と大差ない。俺に向けてまっすぐに降って来るシルヴァン第三王子の声音が、ぎらりと光りながら振り下ろされる刃そのもの。 「おまえは、俺が怖いのか?」  怖いよ。  ドッペルゲンガーとご対面するよりも、よっぽど酷い。  だって俺は、おまえの声に人生を懸けてたんだ。演じて生きていたかった俺にとって、それは命を懸けてたってのと同義だ。  だから、頼むよ……――川嶋穂高の命の音を、そうぽんぽんと鳴らすなよ。

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