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声ってのは、本当に不思議なもんだ。
「おはよう!」なんてごくありふれた台詞でも、俺の心を一瞬で満たし切ってくれる。
そんな声を持つ人がいる。
その音の波には、確実に見えない力が乗っていて、それはまっすぐに、こちらの胸まで届くんだ。
眠れない夜に聞けば、自然と心が凪ぎ、ゆったりと体が弛緩して、静かな眠りを届けてくれる。緊張する試験や面接の日の朝に聞けば、無敵な気持ちになって、自分らしく挑もうと勇気を得られる。
そんなのはもう、ほとんど魔法じゃないか。
『すみません、いまの台詞なんですが……、もう一歩分、距離感を近くしましょう』
俺が初めて入ったアニメ収録のスタジオで、とある先輩がそんなリテイクを出されてたことがある。
アニメでもドラマCDでもなんでも、声優の演技にリテイクが掛かることは、特に珍しいことじゃない。本番の前にはテストがあって、そこではみんな、いろいろな演技や声を試し、制作陣の持つイメージに近付けてゆく作業をするんだ。
もっと優しげに、と言われれば、声音をそちらに寄せる。同じ感情でも、濃淡や強弱はさまざま。シーンに、キャラクターに、台詞に最も合う色を、たったひとつ「これ」だと定めた後に、本番がやって来る。
名もなき兵士Cとしてほぼガヤみたいな台詞を入れるだけだった俺は、その時、スタジオの壁際にあるソファにちんまりと座して、先輩方の生のアニメ収録に内心「すげえすげえ」と興奮しまくっていたものだ。
ところで実に阿呆な養成所時代の俺が同じリテイクを言われたら、まずマイク前の立ち位置を直すところだ。だが、もちろん監督の意図はそんなことじゃない。
事実、それを指摘された先輩は、マイク前の自身の体勢をミリもずらさなかった。
だけど、放たれた声音は確実に、台詞相手のヒロインへと一歩分、近付いていたんだ。
どういう技術なのか、わからない。
わからなすぎて、ど新人の俺は、その場で泣き出しそうになった。……いまふと突っつかれでもしたら、俺は鳥になるんじゃないか。そんな勢いで、全身にぶわああと鳥肌が立つ。
すごいとかすごくないとか、もうそういう次元じゃない。
――人の声での表現って、どこまで無限なんだ。
どうしたら、俺もあんなふうになれるんだ。
一つ進めば、一万の「出来ていないこと」が見えてくる。俺にとって声優という職業は、ずっとその繰り返しだった。
デビューから十年経とうが、まだまだ、ただの未熟者だった。先輩方の背中はあまりにも大きくて、きらめく才能を持った新人は遠慮もなしにばかすか出て来る。毎日が戦いだ。それで良かった。それが良かった。
俺はずっと、『声優』という魔法の職業に、魅入られ続けていたんだ。
「おまえは、この呪文をどのくらいで覚えたんだ。リオン」
俺の真正面、小さな段差に腰掛けているシルヴァンから訊ねられ、俺は「どうだっけ」と天井を見る。外郎売のテキストを貰ったのは声優養成所に入ってすぐ、マジのど初っぱなだからな。はるか昔すぎて、さすがに忘れた。
「うーん……たぶん、七日間とかじゃないか」
「七日か」
生真面目に頷いてみせたシルヴァンは、夏の盛りを迎えつつあるいま、たぶん少しだけ前髪が伸びた。額を見せない今日のようなスタイリングだと、その緑瞳も曇り空の下みたいな色をしている。
俺はなんとなし、彼の容貌をじっと見つめた。
『稽古しよう、シルヴァン』
裏庭の井戸のふちに並んで座って、陽なたの大花壇を眺めながら話していたのは、ちょうど一月前。
あの日の翌日から、俺は早速、シルヴァンに稽古を付け始めたわけだった。
ところが早々に、「屋外では支障がある」と苦情が出ることになったのだ。……まあ、その声を上げたのは、シルヴァンの侍従なんだが。
そりゃ、二人でのんびり世間話をするのならともかく、しっかりと腹から出した声で発声練習なんかをし始めたら、庭師たちもびっくりだし、王子の評判を気に掛ける侍従は生きた心地がしなかっただろう。
それは俺が悪かった。あまりにも考えなしだった。
シルヴァンを見習って素直に反省する俺の与り知らぬところで、早急かつ迅速に、各方面へのさまざまな交渉というものが試みられていたらしい。
その結果、王女宮内の空き部屋が一つ、シルヴァンの練習室として確保されることになったのだ。
元は王女たちが淑女教育の一環として楽器をたしなむために使用していたというこの部屋は、平たく言えば、音楽室だった。置かれている調度品はどれもこれも芸術作品みたいなきらきらしさだが、その棚の中には楽器類が並べられていたり、楽譜と思しき細い背表紙がずらりと揃っていたりする。うむ。
音楽室だ。
シルヴァンとともに初めてここへ踏み入った時、王城の中にもこういう部屋があるんだなあ、と俺は奇妙な気分になったものだった。
現在の王女たちの音楽室は別棟にあり、二、三組でダンスレッスンも出来るほど広い一室を誂えたということなので、この部屋に関しては本当にただの空き部屋であるらしい。ゆえにどう使ってくれても構わない、と全面的に引き渡された……という話を俺が聞いた時には、室内の一角は大胆に改装され、なんと簡易的ながら厨房が造られていた。
……シルヴァンの侍従は、よほど裏庭での時間が不服だったんだろうな。
おかげでここではいつでもお茶を淹れられるし、主人思いの侍従の手によって、立派な茶菓子も着々と揃えられつつあるのだ。
さて。これらの経緯を振り返っただけでも、王族を巻き込むことの空恐ろしさを感じないか。俺はひしひしと感じている。
だが、最も驚いたのは、俺に報酬が出る、という話を聞かされた時だった。いやいや。
どこにどう話を通して、どんな軌跡を辿れば、そうなるんだ。
いいのかそれは。
俺の本職は一応、騎士なんだが。
俺が目を白黒させていると、そのようすを哀れに思ってか、シルヴァンは苦笑しながら説明してくれたものだ。
いわく、「練習室を確保するにあたり、「講師を招くため」という理由を使ったから」らしい。
その講師がつまり、俺だ。
ということで、裏庭の大花壇から始まったシルヴァンとの時間は、もはやないしょのサボりでも堂々と過ごす休憩時間でもなく、俺の合法的な副業扱いになった。
……まあ、貰えるものは貰っておけばいいよな、と開き直るのがいちばん良い気がする。貯金額も増えるし。
俺としては、願ったり叶ったりだ。
でも同時に、ちょっとした寂しさも湧くんだ。
だっておそらく、二月後の誕生会を終えたら、シルヴァンは王女宮へは来なくなると思うんだよな。
彼ははじめ、ノエル王女殿下のことが知りたくて、俺を訪ねたのだ。そこで楽な方に逃げてくんなボケ、と俺が撥ね付けたものだから、妙に興味を持たれて足繁く通われたものの、そんな瞬発力みたいな関心、もうとっくに落ち着いてることだろう。
そしていまシルヴァンは、誕生会での朗読の披露を機に、ノエル王女殿下とちゃんと向き合おうとしている。
現在、俺が彼に必要とされているのは、「朗読の披露を成功させよう!」と発破を掛けた俺に、彼が乗ってくれたからに他ならなかった。
だから普通に、誕生会の後、俺はお払い箱である。
(まあ、仕方ないよな)
シルヴァンから見て、俺を特別に引き立てる理由なんか、一つもないんだ。
そもそも俺は、シルヴァンとこの先、どうなりたいんだろう。
俺の立ち位置は現状、シルヴァン第三王子の『私的な関係』の範疇に入っている……と思う。つまり知る人ぞ知る秘密というやつだ。うっかり報酬の話が出て来たあたりで若干怪しくはなったが、それでもまだ、俺たちの間に政治的な意味合いは含まれていないはずだった。
だがもし、俺が「ノエル王女殿下の誕生会を終えた後にも、引き続きなんらかの形でシルヴァンと交流を持ちたい」と望んだ場合、そこには『正当な理由』というやつが無ければならない。
その『理由』が難しすぎるんだ。
いちばん良いのは新たな仕事を持ち込むことだが、王女宮の第二隊から王城中枢を護る第一隊へ提案することなど何もないし、俺が公爵家の采配を多少なりとも任されるようになるのは、少なくとも二年後、アデラと結婚した後なのだ。遠い。
プライベートの『理由』となると、もっと絶望的だ。
公爵家嫡男の身で「王族と親しい」っていうのは、あまりにもカードが強すぎる。
だからこそ、それが露見した日には、王城中の人間が「なぜ」を問うだろう。そこで誰もが納得するような、俺とシルヴァンを繋ぐ『共通の話題』を広く周知出来なければ、好奇と疑心の剣によって痛くない腹まで深々と探られることになる。
なるほど。では、あらかじめ「二人の間に『共通の話題』を用意し、社交界に広く知れ渡るようにしておく」という予防策を取ってみよう。――そうすると、それは俺の政治的な立場を表明することとイコールになる。
俺が公爵家嫡男である以上、政治的にどんな立場を取るかは、リッシュ家の進退にも関わる。
当然ながら、俺一人では決められない。
めんどくさすぎないか。
思えば、あの裏庭に居る時のシルヴァンは、決して侍従を伴わず、その身ひとつで俺の前に立っていたんだよな。
彼の立場でそれをするのは、もちろん、特別な意味がある。
俺と過ごすひとときの間、彼は第三王子殿下ではなかった。――生まれた時から纏う王族の身分をすっかり脱ぎ捨てて、ただのシルヴァンとして、隣に居てくれたのだ。
(たとえば)
ノエル王女殿下の誕生会が終わっても、ああやってふらりと、俺に会いに来てくれないだろうか。
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