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「リオン?」
どうした? と、シルヴァンが訝しげにこちらを見た。
俺の手書きした外郎売を手元に広げて、それを興味深げに眺めていた彼の漆黒の前髪は、いっそ頬へ掛かろうかというほど深く垂れ下がっている。わずかに頭を起こしたシルヴァンの動きにつれ、その毛先の紗はゆっくりと持ち上げられたところだった。
光を内包する緑色の瞳が、まっすぐにこちらを射貫く。まともに見合うとどきりとする、強い瞳だ。
うーん。
つくづく、キャラデザが良いんだよなあ。
俺はつい無言のまま、シルヴァンの瞳に見入った。……この目を、アニメではどう描いたんだろう。
声優がアフレコをする時、アニメの画 はまだ完成していないことが多い。必要最低限の線だけを用いて画面の構成を伝える絵コンテを前に、ゼロコンマ何秒の指定に従って台詞を吹き込む。そんな現場がほとんどだった。
つまりいかにキャラクターの「中の人」と言えど、完成したアニメを一足先に観ている、なんてことはほぼないわけで……。
「――」
シルヴァンはふいに、すっと表情の色を消した。
おっ、と?
だが、もしや急に機嫌を損ねたのか、と身構えるには、彼の纏う空気には棘がなさすぎる。むしろ、真綿の白い海を広げるかのような、柔らかな熱を感じた。
なんなんだ、この雰囲気。
俺はいくらか速めの瞬きを繰り返す。顔か。じっくりと目を見つめすぎて、知らぬ間にお互いの顔が近付きすぎているのが良くないのか。
思い至った原因をすぐさま解消すべく、俺は自分の背を退く。
「……リオン」
とっさに引き留める時の仕種で、シルヴァンの手が俺の手首を握った。引き留める? なんでだ。
なにをだ。
胸に湧いた強い疑問は、そのまま体の反応として出る。俺はびくりと肩を揺らした。
瞬間、シルヴァンは弾かれたように俺の手を離す。
それと同時、練習室の扉が外側からノックされた。
「シルヴァン様、リオン様、失礼いたします」
侍従の声だ。室内は朗読の稽古中であることを承知の彼は、わざわざ返答を待つこともなく扉を開ける。そうしていやに慎重に戸口を潜ってくると思えば、侍従はその両腕にまた新しい菓子の箱を抱えているのだった。
「おや、休憩中でしょうか? すぐにお茶をお淹れしますので、お待ちくださいね」
「いや」
そうではない、と答えて返しながら、シルヴァンは床を立ち上がる。俺もつられて立ち上がったものの、心と頭はまだじんわりと混乱していた。
シルヴァンに一瞬だけ掴まれた手首が、なんだか熱い。……気がする。
「シルヴァン」
忌憚ない演技指導と王族への敬語との両立に四苦八苦する俺を見かねたシルヴァン本人から、「この部屋では気にするな」との許可を得ている俺は、そのやり取りを知る侍従の前でも、彼を呼び捨てだ。
すぐ間近のシルヴァン、そして彼の肩越しに侍従からも目線を向けられ、俺はひとまずよくわからん混乱は捨て置くことにする。
ただの成り行きで報酬が発生しただけとはいえ、それでも金銭を受け取る以上、これは俺の仕事なんだ。
「昨日の続きから行こう。それで今日は、最後まで読み通せるようにする」
「了解した」
いつものようにシンプルに頷いたシルヴァンは、長い脚でひょいと低い舞台へ上がり、中央の位置に立って朗読用の本を開く。
俺は自分の定位置である舞台手前の床へ、もう一度座った。「舞台」と言えるほど大仰な段差でもないが、階段一段の半分くらいには床の上がった位置が、シルヴァンの練習場所だ。
彼は片手に開いた児童書を見ながら、前日の稽古から続く文章を読み上げ始める。もちろん、本番となる誕生会では椅子に座す予定だ。だが、まだいまの段階では、基礎的な発声方法を身に付ける方が先だった。
いまのシルヴァンの目標は、本に書かれている内容を書かれているまま、突っかからず、噛みもせず、すんなりと読み通せるようになることだ。
それが出来てから、一つ一つの言葉に感情を乗せることを考える。
朗々としたシルヴァンの声音が、防音の効いた練習室内に満ちてゆく。
ところで俺は、シルヴァンの声を聴いても泣かなくなった。……我ながら、小学生男児みたいな報告なのはどうかと思う。だがまあ、子供のように泣きじゃくっていたのは事実なので仕方ない。
なんというかたぶん、涙の水位が下がったんだという気がしている。
相変わらず心に痛みは覚えるし、どうしたって揺れる感情 は揺れる。それでも、そんな内面の動きに飲み込まれることはなくなったのだ。
(お)
順調に読み進めていたシルヴァンが、ふと、単語に突っかかる。
視線を上げた俺と目が合うと、彼は本のページを捲り直した。突っかかったり、噛んだりしたら、文頭からやり直し。ひたすら地道に、それを繰り返してゆく練習だ。
シルヴァンは、実に優秀な生徒だった。
多忙の彼が練習室へやって来るのは、さすがに毎日とはいかない。あらかじめ押さえていた時間の半分も居られず、やむなく途中で切り上げる、なんて日も珍しくないくらいだった。
そんな中でも、シルヴァンは俺の教えた基礎練習を一日たりとてサボらず、しっかりと続けてくれている。全身と口まわりのストレッチ、正しい呼吸法の習得。喉を開き、滑舌を鍛え、横隔膜の筋力トレーニングもする。表には出ない場所で築かれた彼の努力は、その声を聴けばどうせずともわかった。
シルヴァンの声は、格段に柔らかな深みが出るようになっている。
ということで、俺はそろそろ、本格的に目の前の問題に取り組まねばならないのだ。
……演技って、どうやって人に教えるんだろうか。
声帯周りの技術的なことなら、俺にもどうにか指導出来ないことはない。自分が習ってきたことを思い出せば、なんとかなる。だが、演技。演技な。
演技かあ。
俺、どうやって演技してたんだろうな。
いや、もちろん、自分の喉から出す声であれば、なにも困りはしない。
声優だった頃の俺の脳内には、飛行機のコクピットみたいなものがあった。目の前には無数のレバーやボタンがあって、俺はどこをどう動かせばどんな声が出るかを、すべて把握している。
それを目指していた若輩者の身分ながら、一ミリ単位の微調整をして、管制塔 の指示どおりの空へと声音を飛び立たせる技術は得ていたわけだ。
俺の声を持つとはいえ、シルヴァンの頭の中にコクピットなんてないだろう。
ということは、俺が俺自身に命じていたように、右から十五番目の感情のツマミを何ミリひねって、左側にある声音のニュアンスレバーを三ミリ下げて……みたいなことを説明しても、通じやしないわけだ。
――演技って、なんなんだ。
若干途方に暮れている俺の目の前では、シルヴァンが真面目に本を読み上げている。
本当に熱心で、良い生徒なんだ。
いやマジで、なんでサボらないんだ。先生にもうちょっと時間をくれ。
だがシルヴァンはこの日、数十分にも及ぶ朗読で披露する箇所 をすべてきれいに読めるようになってしまったのだった。なんて優等生なんだ、王子様……。
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