16 / 34
7 -03
「俺は途中から、間違って小説でも手渡されたのかと思ったものだ。実に素晴らしいことだな、リオン」
「兄様、さすがです……!」
俺が呆けている間に、オーギュストのギアが上がっていた。
ああ、俺はいま、リオンなんだっけ……。
まるで白昼夢に包まれてでもいたかのような心地で、俺は何度かゆっくりと瞬く。羽織っていた毛布を剥ぐみたいに、急速に、「川嶋穂高」の記憶と体温が遠ざかっていった。
俺の目前には、興奮しきった弟の可愛い笑顔が見えている。
オーギュストはなんとシルヴァンに背を向け、俺の方へ振り返ってしまっているのだ。……弟よ。王族に尻を向けてはいけません。
「リオン兄様はやっぱり、どこに居ても特別です。学園でも、前例にない好成績の記録を次々と打ち立てていました。入学から、いいえ、入試の時点から、卒業までずっと――一度も、誰にも、首席の座を譲らなかった。騎士科へ進んでからも、すべての模擬戦で優勝していたし、兄様は本当に、本当に完璧な人です」
俺への兄弟愛を爆発させながらも、オーギュストは一応ちゃんと冷静ではあるらしい。熱弁は敬語の形を保っており、言葉の途中からは背を返して、シルヴァンへと向き直ってもいた。
いやいや。この王国の第三王子殿下に、なぜ愚兄の素晴らしさを語って聞かせているのかね。弟よ。
「我が長兄たる王太子でも、学園時代にそれほどまでの栄光を得たことはない。自慢の兄だな、オーギュスト」
「はい……!」
はい、ではないです。そこはきっちり謙遜しろください。
これは、後でお叱りの手紙を書く必要があるな……。
もはや完全に対応を間違ってしまっている弟の背中で、俺はシルヴァンに向けて「まじでごめん」の礼を取る。つくづく優しい男であるところのシルヴァン殿下は、俺への苦笑一つでこの場を不問としてくれるようだった。
というか、返す返すもまじで、父親の課したハードルってやつが馬鹿めちゃ高かったんだよな。
シルヴァンの先の台詞はリップサービスだとしても、わざわざ王太子殿下を引き合いに出そうというくらい、リオン・ル・リッシュの「完璧」っぷりは飛び抜けていたのである。さすがはリオンだ。我がことながら、他人の話のようにそう思った。
でも、ああ、そうだ。
……だからこそ、俺の学園時代は暗黒なんだった。
あの頃に抱え続けたどうしようもなく暗い鬱屈が、まるで昨夜までそこにあったかのようなじっとりとした湿度とともに這い上がってくる。いまの俺の心の縁に、記憶の亡者が指を掛け、そのまま底へ引きずり落とさんばかりの凶暴な力で縋り付く――そんな錯覚に襲われ、肌の上にぞわりと鳥肌が立った。
たぶん元々、リオンは能力値が高い。
でも能力ってのは、持ってるだけじゃどうにもならない、ってのも事実なんだ。天才として生まれついたのならいざ知らず、リオンはどう考えても秀才止まりの男だぞ。
つまり「完璧」なリオン・ル・リッシュの輝かしい学園時代は、天から与えられた奇跡なんかじゃなく、俺の血と汗と涙と努力の結晶によって打ち立てられている、と言えた。
……だが、それを振り返ってみたところで、誇らしい気持ちにはなんらなりようもない。
これが自分で望んだ栄光なら、少しは鼻も高くなるだろう。でも哀しいかな、俺がトップを取り続けたのは、ぜんぶ父親からの命令によるものなのだ。
いかに親とはいえ、自分ではない他人からの要望に必死になって応え、応えて、応え続けて、そうして俺自身が得たものと言えば、まあなんとも立派な虚しさだけだった。
「わかります、僕も、リオン兄様と過ごす時間が大好きなんです」
俺が俺の輝かしい暗黒歴史に気を取られている間に、弟はどうやらシルヴァンと意気投合しつつある。うむ。
「すっかり話題が無軌道すぎませんかね、お二方」
そろそろ場をまとめる人間が必要だろう、と俺から声を掛けるのと、シルヴァンの背後に控えていた侍従が「殿下、お時間が」とこの場の幕を引こうとするのとが、ほとんどいっしょだった。
それによって我に返ったオーギュストは、今さらながら相手が王族であることを思い出したんだろう。慌てて退出の許可を得ると、挨拶を述べ、ついでに俺へも手を振って、練習室を出て行く。
シルヴァンと長く話し込んだことですっかり緊張も解け切ったようで、一連の礼儀は完璧だった。
うちの弟、やっぱり優秀だなあ。
そして当のシルヴァンは、オーギュストが退室するのを待ってから、侍従へと短い命令を告げていた。「では、そのように調整して参ります」と頭を下げて侍従が立ち去ったことを思うに、いまの雑談でなにがしかの予定が一つ、流れるか移動するかしたんだろう。
王族ってまじ、分刻みのスケジュールだ。
「リオン」
かつての俺の声が、俺を呼ぶ。
俺は、小さく肩を揺らした。……いや、待て。なんで、いまになって、シルヴァンの声に「川嶋穂高」を感じているんだ。
それはもう、乗り越えたはずの痛みじゃなかったのか。
(ああ)
もしかして俺はいま、自分が把握するよりももっと深く、強く、混乱しているんだろうか。さっき振り払ったはずの亡者の手が、まだ俺の心の縁に爪を立てて、鋭い痛みをぎりりと生み出そうとする。そんな錯覚さえ起きそうだった。
大丈夫だ、と俺は、俺に向けて呟く。
その亡者は、他人の操り人形だった頃の俺だ。そいつとは、父親が支配する生家を出た時に、決別したんだ。
俺はもう、あんな生き方はしない。――でも。
『片手間でなんとなくでも王城に居さえすればいい、などと考えるのは、不遜だ』
俺がこのままリッシュ公爵家の嫡男として生きようとすれば、いずれまた、努力と研鑽の日々がやって来る。なりたくもない宰相を目指して、己の人生をすべて懸けることになるのだ。
(……そういえば)
俺とシルヴァンはいま、まさにその件で、喧嘩未満の微妙な空気を醸しているのだった。
「……リオン」
シルヴァンはどこか慎重な仕種で、瞬きを挟んでみせる。そうして再び露わにされた緑瞳は、その声音と同じ、こちらを案じる色に染まっていた。
(俺)
(そんなひどい顔を、してんのかな)
細い糸で釣られた風船が、胸の真ん中に哀しく揺れる。
俺はこいつを取り下げて、代わりに立派な額縁を用意しなきゃいけなかった。分不相応にキンキラの額縁には、「完璧」の二文字を掲げるんだ。
そうして、良き宰相への道をひた走る。
わかってる。
わかってるよ。
でも。
「おまえの可愛い弟は、『俺より長身だったり歳上だったりはしない』んじゃなかったのか」
「はい?」
そう問われて、俺は本気で目を丸めた。ガチで、次元がぶっ飛んだかと思った。
シルヴァンは両腕をゆったりと組み、しかめつらしいようすで続ける。
「おまえの弟は明らかに、おまえより背が高かったように思うんだが?」
「うわっ」
言葉の張り手に叩かれた気分で、俺は自分の耳を覆う。
今度は、シルヴァンがきょとんと目を丸めた。
「うわ?」
「俺の弟はいま、十九歳なんです……!」
動揺のあまり、敬語が出た。シルヴァンは実に神妙に頷く。
「……なるほど、一つ歳下だな」
「いっしょに住んでた頃までは、ぎりまだ背が並んだな~って思うくらいで、つまり俺が追い抜かされたのは、ここ最近の話です! 弟の人生、十八年間以上は、俺の方が背が高かったんです! 俺の中では、弟はまだ、俺より小さくて可愛いんです!!」
「わかった。俺が悪かった」
降参を示すかたちで両手を挙げてみせたシルヴァンは、肩を震わせて笑っている。なので、俺は安心して眉を怒らせた。
たぶん、それで良かった。
だってシルヴァンは俺に、ちゃんと猶予をくれたんだ。
これはきっと、彼からの友情だ。……シルヴァンは、とても言葉に出来ない俺の心の葛藤を、やっぱり言葉にはしないまま、深く思い遣ってくれたのだった。
「失言は水に流しますんで、とりあえず座っててください」
俺はわざと偉ぶって言いながら、シルヴァンに椅子を勧める。オーギュストと飲み干した紅茶のセットを手早く片し、多忙の王子様のため、新しい紅茶を用意し始めた。
さすがに俺は遠慮するつもりだが、シルヴァンが一服した後は、今日の稽古を始めようじゃないか。
そんなふうに、いつもの俺たちを取り戻していける。
(ああ)
(良かった……)
俺は安堵のあまり、うっかり涙ぐみそうになった。……思うに、俺が涙もろいのは、年齢のせいじゃないのか。どうなんだこれ。
ところで、シルヴァンはずっとくつくつ笑っているままだ。
何がそんなに面白いんだ。
そう呆れ半分に問えば、彼はまだ笑いながら、さらりと不可解な答えを告げてみせたのだった。
「俺にとってのおまえは、リオン。つつくと爆発する、物騒なびっくり箱みたいな存在だよ」
爆発? ……物騒!?
ともだちにシェアしよう!

