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8  毎朝、騎士寮の一人部屋で外郎売を(そら)んじる。  ……その習慣は、いまの俺にとっては、死んだ風船をじっくりと眺めるような時間になった。こんなふうに言うと、あまりにも自虐的だと思われるだろうか。  だが俺としては、むしろ逆に、一日の中でいちばん心が凪ぐ瞬間だとさえ感じているのだ。  しいんと静まりかえった穏やかな心の中を見つめていると、憐れみの感情が湧き出してくる。  風船として浮き上がる力なんてもうないのに、どうしてこいつは地面へ還ることが出来ないんだろう。――そうさせているのは間違いなく俺自身なんだが、それでも、「可哀想にな」と思うんだ。 「シルヴァンには、将来の夢ってあったの?」  俺が問うと、シルヴァンは地道な発声練習をふいにつんのめるようにして止めた。  ずいぶん高くなった青空を窓の外に広げる、いつもの練習室内。  ノエル王女殿下の誕生会までは、残り半月ほど。  俺の定位置は変わらず、舞台手前の床だ。  驚いたように目を丸めてこちらを見るシルヴァンの表情に、俺は遅れて我に返る。  おっと、ごめん。俺は俺の物思いに沈むあまり、タイミングも何もあったもんじゃない発言をしてるな。  だが、実に律儀に「ちょっと待て」と断ったシルヴァンは、一通り最後まで発声をしてから、改めて俺の手前まで歩んだ。  練習場所である舞台から降りてきて、深く屈み込み、俺と目を合わせる。そうしてこちらの目線を柔らかく拾い上げる緑瞳には、窓から差す陽光がきらきらと細かなきらめきを生んでいた。 「リオン」  やや思案げに瞬きをするシルヴァンの、精悍な頬に落ちた睫毛の影が、ひどく綺麗だ。 「どうした?」 「……この前、責任の話をしてくれただろ。高い地位に伴うってやつ。改めて考えたら、俺なんかじゃ想像出来ないくらいに重たいものを、シルヴァンは背負ってるはずだよなって気付いて……。やりたいこととか、叶えたいこととか、どのくらいを掴んで、どのくらいを諦めたんだろうなって、なんかそう思ったんだ」 「そもそも俺の王位継承権は高くない。だから、比較的自由だ」  いや、第三王子は普通に継承権三位だと思うんだが。  ……でもまあ、三男と同じと考えれば、家を継ぐ可能性はけっこう低いな。 「王城騎士団にも自分で志願したし、三年前に婚約者がどこぞの馬の骨と駆け落ちして以来、なんだかんだと理由を付けて次の婚約者も決めずにいる。そうやって、いまだに独り身を謳歌しているくらいだ。俺の背負う責務は、おまえが想像するほど重くはないよ」 「えっ」  俺はうっかり声を上げてしまい、慌てて口を閉じる。だが、まあ、後の祭りだ。シルヴァンの表情は、こちらに「なんだ?」と問うている。  ……そういえば、シルヴァンの年齢で結婚していないのって、この世界の常識からすればわりと特殊なケースと言えるんだった。  なにせ俺ですら、二十三歳になる前には結婚するのだ。  でも、そうか。  ここは主人公(ヒロイン)と恋愛をするために創られた、『乙女ゲーム』の世界だ。  シルヴァンがローズとの恋に落ちるためには、将来を約束した女性など存在されては困るだろう。その矛盾を解消するために取られた施策が、「相手の女性の駆け落ち」という、王族にあるまじきスキャンダルなわけだ。 「シルヴァン……婚約者に、逃げられたんか……」  俺は目前の緑瞳を見上げながら、決まり悪くずるずると二の句を引きずり出した。 「その……ショックだったり、したのか?」 「次の婚約者を決めない理由が彼女にあるのか、という意味なら、答えは否だ」  シルヴァンは「隣いいか」と俺に確かめてから、俺とおんなじ床に腰を下ろす。……王子様と隣り合って体育座りをするのは、どうにもおかしな心地だな、と思った。いや、シルヴァンは片膝を立てており、体育座りはしていないのだが。 「彼女に敬意は感じていたが、恋愛感情は一欠片も持ち合わせていなかった。だから、こう言ってはなんだが、彼女の駆け落ちは俺にとっても都合良かったんだ」  傍らに見遣る横顔は、いっそ晴れやかだと言えるくらい穏やかな表情だ。俺はなんとなくほっとする心地で、「そっか」と相槌を打って返す。 「いまだに傷心が癒えない、ということにしておけば、そうむやみに結婚を急かされることもない。実際、俺は恋愛だのなんだのよりも、仕事に打ち込んでいたかった。せっかく夜会に出ても、腹だけ満たしてとっとと帰って来て自宅での鍛錬に励むだなんて嘆かわしい、と侍従はいつも泣いているぞ」 「ストイックだなあ、シルヴァン」  俺は苦笑した。だが、喉の奥には、どうしても押し出せない言葉がわだかまる。  ――そうは言っても、いつかは結婚するんだよな。  もしかしたら、シルヴァン本人にはまだそんなつもりはないかもしれない。けれどここが『ヒストリア』の世界である以上、彼の結婚は確定事項なのだった。  なにせシルヴァンルートのラストシーンは、聖女との結婚式だ。  本来、ちらりとも出番のないモブ以下の空気こと俺は、当然ながらメインストーリーに関与する術など一切なく、いつでも常に蚊帳の外である。……だからこそ、ここへ来てふと疑問を覚えた。  ローズとシルヴァンのストーリーは、いま現在、どのくらいまで進んでいるんだろう。  聖女・ローズが紡ぐ『ヒストリア』の物語は、およそ三年間に及ぶ長丁場だった。  原作ゲームにおける各攻略対象キャラクターのルートは、それぞれ長編小説もかくやと言うほどの大ボリュームで描かれており、非常に没入感と満足度が高い、というのも、『ヒストリア』が長年支持されてきた理由の一つなのだ。  ということは、およそ三年後、二人が公式に結婚を発表したタイミングで、俺もどうしなくても彼らの慶事を知ることになる。その頃にまだシルヴァンと私語を交わせる間柄であれば、直接「おめでとう」と祝うだろう。もし縁遠くなっているなら、こちらも公的な祝いのメッセージを贈るだけだ。 (三年か)  いまのままでいけば、俺はとうにアデラと結婚している。早ければ第一子だって誕生しているかもしれない。さらには閑職たる王女宮の近衛騎士からは退いており、王城の文官として――未来の宰相を目指しているのだ。  リオン・ル・リッシュの人生は、生まれた時からそう決まっている。  例えばそれは、聖女・ローズのストーリーが決まっているのと同じように……。 (いや)  そこまで考えて、俺はふと、眉を寄せた。  この世界での聖女・ローズのストーリーは、「決まっている」ものなのか?  シルヴァンが俺の声を持っている以上、ここはテレビアニメ『ヒストリア』の世界だ。もちろん、アニメのストーリーは一本道になっている。原作ゲームのようなややこしい選択肢など存在せず、どこかでフラグを立てそびれることもなく、物語はまっすぐにシルヴァンとのトゥルーエンドへと向かってゆく。  ――だが、俺が聴いたアニメどおりの台詞と言えば、ガゼボでの自己紹介だけじゃないか? (そうだ)  聖女・ローズとの最初の会話ですら、シルヴァンの言葉はもう、アニメの台詞とはまったくかけ離れていた。  そりゃまあ本来、あの場で水差しの水を被ってずぶ濡れになるのは、ローズだったはずなんだ。それが俺になっていたのだから、もちろん出て来る言葉だって変わるだろう。  そして改めて振り返ってみれば、聖女苛めもなく、悪役令嬢アデラの断罪もなく、(エリクのお家ごとの失墜もなく、)アニメに描かれたエピソードはこれまでに一つも起こっていない。 (あれ? だとしたら)  シルヴァンはいま、ローズのことをどう思っているんだ。

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