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「だけど、そうだな。……子供の頃に思い描いた夢は、なにひとつ叶わなかった」
すぐ傍らで、シルヴァンはそっと声を低める。
その声音の寂しさに引かれて、俺は彼を見遣った。前髪の影に沈んだ緑瞳が、遠い過去を見つめて揺れる。
――王族として生まれた以上、シルヴァンは王家の外には出られない。
無邪気な少年時代に抱いた夢がどんなものであったにせよ、それらはすべて、彼の身分では許されないものだったんだろう。
「ほとんどは仕方ないと割り切れたが、ただひとつ、船に乗りたいという夢だけは諦められなかった。どうしても叶えたかったんだ。だから十七歳の時、城下街の厨房の仕事で得た銀貨を使って、船のチケットを取った。夏期休暇の二月間、行けるかぎりの港を回ろう、と計画を立てたんだ。王族だと知られないよう、偽名で旅券を確保して……十七歳なりに知恵を絞ったんだが、出立の当日にすべて露見し、チケットは取り上げられた」
「シルヴァンは、王国から出たかったのか?」
「世界をこの目で見てみたかった」
淡々と語る、穏やかな声音だ。なのに、その中には、癒えない痛みが響いている。
「この城だけが――この王国だけが世界のすべてではないと、知りたかったんだ。俺の一人旅計画が発覚した後、陛下からは「隠れて家出のような真似をせず、国外で学ぶためには留学をしなさい」と言われ、結果的にそれに従うことになった。だが、俺の心は少しも満たされることはなかった。……俺は王族としてではなく、ただ一人のシルヴァンで、自分の身一つで、この世界と出会いたかったんだ」
俺は自分の膝を抱え、膝頭に頬を押し当てた。十七歳のシルヴァンを想像しながら、二十五歳のシルヴァンの横顔を見つめる。
「俺なんかが王家の判断に異を唱えるわけにはいかないけどさ、でも、すげえもったいないことをしたよな。シルヴァンがその歳で海外へ一人旅に行けていれば、新鮮な風をダイレクトに王城へ吹き込めたかもしれないのに」
多感な時期に外の世界を知った王子の経験は、いずれ彼が王国の政治に関わるようになった頃、ともすれば澱みがちな王城内の血流を刷新することさえ出来ただろう。
もしかしたらそれは、この王国を根本から作り変える潮流となったかもしれない。
「そう思うか?」
「うん。……だけどきっと、いまからだって遅くないんじゃないか」
励ますつもりで添えた言葉だったものの、言った瞬間に、ああ、これは嘘だな、と自分で思う。
案の定、シルヴァンはつと眉を寄せた。それでも彼は、俺を否定するためでなく、自分自身の違和感を形にするために、まっすぐな言葉を紡ぐ。
「リオンは強いな。だが俺は、どうしてもあの夏じゃなければだめだった、どうやってもあのチケットは取り戻すことが出来ないんだと、ずっと悔いるばかりだった。成人してから、余暇を使って船旅へ出たこともある。あの頃の計画よりもよほど自由な旅だった。――なのに、あの日、俺の手元から取り上げられた船のチケットの感触だけは、どうあっても消せない」
(うん)
一度軽く励ましてしまった手前、俺は自分の言葉を撤回出来ず、心の中だけで頷いて返した。
わかるよ、シルヴァン。
――それはきっと、俺にとっての前世と同じだ。
俺の中の死んだ風船みたいに、シルヴァンの中にも、チケットの亡霊がいるんだ。……ずっと、消えずに、遺っているんだ。
「俺は、消えない痛みなら消す必要ってないのかもな、って最近思ってる」
毎朝見つめる、萎んだ風船。
その輪郭を探そうと、俺は両目を閉じる。
だって俺は、願ってるじゃないか。ここに居てくれよと、まだ消えるなと、糸で吊って掲げた風船に。
「いっしょに生きてくんだ。新しい希望で塗り替えたり、終わった過去だと忘れたりする必要なんてない。最後に得たのが痛みでも、そいつが初めて俺の心に生まれた時は眩しい夢だったし、それを叶えようと行動している間は情熱でいてくれた。……そういうのをぜんぶ否定することは、誰にも出来ない。俺自身にだって、絶対出来ないことなんだよ」
「リオン」
シルヴァンの声音に呼ばれて、俺は目を開ける。シルヴァンは、どこか戸惑った表情だった。俺の言葉をどう受け取ればいいのかわからない、みたいな顔だ。そりゃそうか。
俺は遅れて種明かしをする気分になりながら、頬を緩めた。
「シルヴァンの中にチケットの亡霊がいるみたいに、俺の中にも、死んだ相棒が居るんだ」
「……それは」
「あ、ただの比喩だからな。実際に誰かを亡くしたわけじゃない」
いや、まあ、前世の俺は死んでるんだが。
俺の言葉を聞いて、シルヴァンはほっとしたようだった。それから彼は、息を抜くように笑い出す。
「にしても、……チケットの亡霊か」
「そう。半透明でふわふわ浮いてるんだ」
「なるほど、掴みたくても掴めないわけだな」
うん、と俺は首を倒して頷く。
「俺もさ、俺の中の相棒が生きてた頃を知っていて、それを忘れられない。その頃に戻りたいんだ。でも、そんなの無理だってこともわかってる。だから、声優(あいつ)の代わりを必死に探してたけど――もういいんだ。代わりなんていない、あるわけないって、ほんとは俺がいちばん、よくわかってるんだから」
「リオン。いつか機会があれば、訊きたいと思っていたんだが」
シルヴァンの口調がわずかに改まるのを聞いて、俺は彼がなにを問おうとしているのかがわかった気がした。そして、その予感は少しも外れやしない。
「おまえにとって、『声』は特別なものなのか?」
「――」
「読み聞かせや朗読、人形劇……『声で読む』ことにひどくこだわるのには、どんな理由があるんだ」
いま、ここで、シルヴァンを相手に――俺の前世の話をしてしまおうか。
(川嶋穂高の、話を)
でも、どんな言葉を紡げばいい?
これから自分が放つ「実は」の先を想像しようとするだけで、世界が再び、水没する。
どうしてここまで、こんなにも、俺は弱いんだ。
違うか。
どうしても、こんなにも、大切だった。――声優でいたかったんだ。俺は、死ぬまで演じていたかった。
死んでも、あの頃の自分を手離したくない。
(ああ、だめだ)
本当に視界が潤んでくるのがわかって、俺は自分の腕に顔を伏せる。だめなもんは、だめだ。
なら、もうそれでいい。
後で、一人になった時に、好きなだけ泣けばいいんだ。
俺は鼻先を腕と膝のあいだに埋めたままで、不自由な深呼吸を繰り返す。いまは泣くな。
シルヴァンを困らせたくない。
この人は、俺のケアをするために居るわけじゃないんだ。俺がみっともなく泣き出しても、彼はなにも問わずにそっと慰めてくれる。それを知っているから、なおさら泣きたくなかった。
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