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 俺とシルヴァンは、どちらも大人だ。  若干、俺の方は「本当に大人か……?」と疑われても仕方ない不甲斐なさではあるが、まあ大人だ。  つまり恋愛のあれこれのために自分自身の職務や役割を放棄することは、ありえない。そんなわけで、俺たちはあの後、シルヴァンの時間が許すかぎり練習をしたのだった。  翌日たる本日もまた、同様である。 (うむ)  気まずい。  だが、馬鹿正直に「気まずい空気」を晒すのもまた、大人とは言えない。 「シルヴァン。まだテンポが速い。語尾が流れてる」 「わかった」  シルヴァンは頷き、呼吸を整える。  俺は床上に開いた児童書の文面を見ながら、シルヴァンが読み直す声を聞いた。  俺たちは表面上、実にスムーズなコミュニケーションを成立させている。こと俺にいたっては、もはや根性の成せる技だと言っていい。  だって振った側が気にしていたら、振られた側は地獄だろう。  いや、振った……と言うか、振りたくはないんだが、現状は振るしかないと言うか。 (うーん)  俺がもしシルヴァンの手を取るとしたら、それはもう大変だ。ちょっと考えただけでも、片付けなきゃならない問題は山積する。シンプルに問題が多い。多過ぎる。……多過ぎて、一日や二日ではどうにもならないのである。 「シルヴァン、いったんここで休憩しとこう」 「わかった」  頃合いを見て投げ掛けた俺の声に頷くと、シルヴァンはいつものように舞台から降りる。そのままテーブルへと向かう背を、俺はたぶん追う必要があった。実を言えば、シルヴァンの侍従はまだ、この場にはいないのだ。  となると必然、王子様のお茶は俺が淹れるわけで……。 「……」  だが俺は、シルヴァンがいつも立つ舞台の方向を見たままだった。  そちら側にある扉が、なんとゆっくりと開こうとしている。……ふむ。これ、気付かない振りをした方がいいんだろうか? 「……!」  迷ううちに、扉を押し開けている小さな人物とばっちり目が合ってしまった。彼女は驚いたようすで飛び上がり、開いたままの扉の向こうへさっと消える。  俺は立ち上がった。 「シルヴァン……」 「シルヴァン様、リオン様、よろしければ扉を開けて下さいませんか!」  俺の声に被さって、廊下からシルヴァンの侍従が声を上げた。彼が言うのは、舞台とは反対に位置する、厨房側の扉だ。その手前にあるテーブルの椅子へ座るところだったシルヴァンは、無言のままに相手を迎え入れてやっている。  練習室へ入ってくる侍従は、自身の視界も塞ぐほどに堆く積まれた箱といっしょだった。両腕で大切に抱えるそれらは、見たところすべてチーズのようだが。  いまはまあ、そちらはいい。  俺は開きっぱなしの扉の方から練習室を抜け出る。左右に伸びる廊下のどちらへ向かうべきか、一瞬だけ迷ったものの、迷う方が阿呆だった。普通に考えれば、侍従が来た方向は無しだ。  急ぎ廊下を進み、一つ角を曲がった。  ――果たしてそこには、ラベンダー色の髪を持つ少女の姿がある。  傍らに寄り添う侍女といっしょだ。  気の付く侍女が少女の肩に手を添え、俺の存在を目に入れるよう導いてくれていた。おかげで俺は、この場に跪くだけで彼女の声を聞くことが出来そうだった。  彼我の身分差を考えれば、俺から声を掛けることは許されない相手である。 「あ、あの……あなたが、お兄様の先生ですか?」 「恐れ多くも、シルヴァン殿下のお手伝いをさせていただいております。リオン・ル・リッシュと申します」  俺は王族への礼を捧げながら、深く頭を垂れる。  こちらが名乗ったからだろう、少女は「あ、えと」と慌てたように言葉を継ぐ。 「わたしは、ノエル。ノエル・エリオール=デュラフォアです」  改めて視界に映す少女は、髪色と揃いのドレスも相まって、ラベンダーの花の精もかくやという可憐な美しさを持っていた。涼やかな瞳の形がシルヴァンとよく似ていて、俺は場違いにも微笑ましさを覚えてしまう。  いかに王族と言えど、兄妹は兄妹だ。 「王女殿下におかれましては、もしやシルヴァン殿下に御用でしょうか?」 「お兄様の邪魔は、いたしません」  やや食い気味に、ノエル王女殿下は否定する。ラベンダー色の髪にゆるゆると波を打つほど、必死に首を振ってまでいた。……やっぱりこれ、シルヴァンはけっこう怖がられてるってことなんだろうか。 「だから、あなたに、お訊きします。お兄様は……本当に、練習をされているの? ノエルのために?」 「はい。一生懸命、頑張っておいでです」  俺は迷いなく頷いた。  大人相手ならばもう少し持って回った言い方を考えるが、ノエル王女殿下は、現時点ではまだ七歳。真っ正直な言葉を使っても、その意味が歪んで届くということはないだろう。 「お兄様が、大きなお声を出したり、たくさん本を読んでいたり、そうやってすごく頑張っているんですよって、聞いたの。ノエルのために、いっぱい、いっぱい、頑張ってるって」 「はい」 「本当に!?」 「本当です」  俺が重ねて頷くと、王女殿下はふわっと頬を染める。「嬉しい」という感情が、彼女の胸の中でぽんぽんと弾けているのだ。両手を強く胸元に押し当てて、ノエル王女殿下はまるで叫びたいのを堪えるかのように目を閉じる。 「お兄様はきっと、ノエルのことがお好きなんだわ」  少女はそれから、傍らの侍女の手を取った。心を許している相手なんだろう。侍女と目を合わせた途端、その表情には不安の色が滲んだ。 「信じても、いいのかな」 「もちろんです。ノエル様」  侍女は力強く頷く。それから、ひたと俺を見た。ノエル王女殿下も俺を見る。うむ。二人の少女たちがなにを求めているのか、実に明白だ。 「もちろんです」  俺は第二隊の近衛騎士らしく、爽やかな笑顔で頷いて返した。  ――ノエル王女殿下は生まれた瞬間に、「聖女」として生きてゆくことが定められたのだ。それが必ずしも彼女個人の幸福を意味するわけではないことは、なんとなく想像に難くない。  単なる公爵家の嫡男として生まれた俺でさえ、乳母のコレット以外の大人はほとんど皆、敵だったのだ。どんなに甘い菓子を与えてくれる人でも……いや、甘い菓子で釣ろうとする人こそ、俺を利用することしか頭にない。  ただの「リオン」を一人の子供として可愛がってくれる人など、どこにもいないんだな、とよく思ったりしていた。……まあ実際のところ、俺は五歳の頃からひたすら音読することに忘我しており、周りの大人がどうだろうと知ったことではなかったわけだが。  俺ほどの世捨て人でもないだろうノエル王女殿下は、きっと必死に、誰か一人でも、大人を信じたい、と願っている。  その「一人」に、シルヴァンならなれるはずだ。  ほんのちょっとだけすれ違いを起こしていた兄妹は、半月後、確実に仲睦まじい姿を皆に見せることになるだろう。  ラベンダー色の大きなリボンが結ばれた胸元にそうっと自身の手を添えて、ノエル王女殿下ははにかむように笑う。 「あなたとお話出来て、良かったです。リオン。お兄様に、「頑張ってください」とお伝えしてください」  それは少女の持つ聡明さと、シルヴァンによく似た素直さの伝わる、とても愛らしい笑顔だった。

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