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ま、ま、待った。
俺がたじろぐ間に、二人分の仮面が、相次いで石の床へと落下する。
「っ……ん、」
どんな言葉を発する間もなく、俺の唇とシルヴァンのそれとが重なったからだ。
だだっ広いバルコニーの片隅。
石造りの壁際に追い込まれた俺は、シルヴァンの腕にしっかりと囲われており、逃げ場はどこにもなかった。
「ん、ン……っ」
いや、いいんだけど。全然別にいいんだけど、いきなりすぎないか。
でも、ああ、そうか。
シルヴァンからすれば、「アデラを裏切りたくはない」と言った俺が、そのアデラと別れた時点で、俺の想い人については察しがつくというか、わりと明白なんだよな。
……じゃあ、いいか。
俺の両手首は、シルヴァンのそれぞれの手によって壁に縫い止められていて、物理的に自由がない。そんな中でもどうにかもがこうとしていた全身から、俺はすんなりと力を抜いた。
せめてちゃんと想いを告げたい、と思うあまり、彼の唇を拒むようにぐっと引いていた顎も、そっと上向ける。
いいんだ。
シルヴァンが、俺の気持ちを知っていてくれるなら。
「ん……っ」
「リオン」
柔らかく重なる唇をくっ付け合ったまま、シルヴァンが俺を呼ぶ。
彼の胸に満ちた想いの蜜が、ゆったりと滴り落ちる。そのとろりとした質感さえ伝える、あまりにも甘い声。……こんな声を、俺は知らない。
「リオン」
名前を呼ばれるたびに、ぎゅうと強く握られたように、心臓が絞られた。
彼のこれほどまでに特別な声を、心を、俺のために捧げてもらえるんだ。そんな事実があるだけで、俺のちっぽけな命なんか、一生分だって幸福に包まれて生きていける。そう思った。
――シルヴァンが、好きなんだ。
声は、心なんだと思う。
声帯を通して、その人の心が鳴っている。だから、同じものは二つとない。――あるわけが、なかった。
「リオン。……部屋を取るが、いいか」
「ん」
絡み合っていた舌先が離れてゆく名残惜しさに、俺は小さく呻いた。
飽きずに繰り返すキスが、どうしても気持ちいい。シルヴァンの唇はあたたかくて、舌の動きが優しくて、唾液は甘い。それらを、俺の口の中から取り上げられたくなかった。
「ん……」
ぽかりと唇を開いて、その隙間に舌先を押し出すと、シルヴァンの大きな舌が迎え入れてくれる。俺はこくりと喉を鳴らして、彼とのキスに酔いしれた。
濡れた唇を擦り合わせると、そわそわと心が騒ぐ。柔らかく押し潰して、厚ぼったい舌にちゅうと吸い付けば、背筋が震えるような心地よさだった。
「……リオン、これ以上は駄目だ。移動出来なくなる」
「い、どう……?」
最初の長いキスの後、俺は俺の手首を拘束するシルヴァンに、「抱き締めてほしい」と希ったのだ。
あの日の練習室で、俺がどれほど彼の腕を、その胸を欲していたのか。当然ながら、シルヴァンはまるきり知らずにいる。
それでも彼は、俺のたった一言から、この心のほとんどを察してくれた。
綺麗な緑瞳を小さく瞠り、そうしてまるで祈るように瞼を閉じて、シルヴァンは俺の背に腕を回した。確かな両腕で、強く、強く抱き締めたのだ。
全身にひしひしと沈み込んでくるような腕の力に、俺は目を閉じた。胸が震えて、どうしようもなかった。
リオン、と呼ばれて、彼の腕の中からその顔を探せば、目が合うや否やキスになる。何度も唇を重ねて、舌を絡めて吸い合って、高まる気持ちよさに俺が立っていられなくなると、二人してバルコニーの床に沈んだ。
そうして、いま現在である。
移動? と訊き返した俺に、シルヴァンは目顔で頷いてみせた。
「屋敷の上階に、部屋の用意があるはずだ」
「ここって、そういう……夜会、なのか」
しばらく言葉を忘れていたせいで、俺の舌の動きはぎこちない。正直なところ、話すよりもキスがしたい。
「主目的は遊興だ。健全にゲームで遊ぶのも、一夜の遊び相手を探すのも、……偶然、恋する相手と会い、秘密の愛を育むのだって、ここでは許される」
「うん……」
「抱き上げるが、構わないな?」
俺に問い掛けながらも、有無を言わさず、シルヴァンは俺を横抱きにする。まあ、俺はもはや歩ける状態でもないので、移動方法はこれしかない。
律儀に二つの仮面を拾い上げてから、ひとまずフロアへと戻った。
夜も深まる中、会場内はさらに蝋燭の数が絞られている。
先ほどよりもぐっと濃くアルコールの匂いが立ちこめるフロアは、ある種、独特な空間を形成していた。カードゲームやボードゲームに興じる面々も、もはや酩酊していない人影を探す方が難しいくらいだろう。
ソファ席の二人が大胆にキスを重ねていたと思えば、明らかに睦み合う空気を纏って立ち去ってゆく。そんなようすでさえ、ここではごく自然なことのようだった。
シルヴァンの言うとおり、この夜会に集う全員がそれ目的だというわけでもないが、健全な遊びから抜け出すことを咎める場でもないのだ。
薄闇のフロアをまっすぐに横切り、バルコニーとはちょうど反対側に位置する扉から、廊下へと出た。
目の前には、すぐに螺旋階段がある。階段の手前に、小ぶりの飾り棚が鎮座していた。そこに並ぶ鍵を取るように言われて、俺はシルヴァンの声に従う。どれでもいいらしいので、ど真ん中のやつを選び取る。
鍵には番号とアルファベッドが刻まれていたが、つまりそれが部屋のある階数と扉の場所を示しているらしかった。こう言っちゃなんだが、システムがまんまラブホテルだな。
「カナリア様」
静かな声音に、呼び止められる。
カナリアってなんだ、とは受付でも思ったが、たぶん髪色だ。この夜会限定のコードネームみたいなものだろう。とはいえ、まさか全員に付けて回るはずもないので、俺はそれなりに特別扱いされているのかもしれなかった。
「そろそろ中夜となりますが、どちらへ向かわれますのでしょうか」
「断る」
シルヴァンが答えた。
彼の腕に抱き上げられている俺には、執事の声の方を振り返ることすら出来ない。最初の呼び声で首を回したが、やむなくシルヴァンのジャケットに鼻先を埋めただけで終わった。
「ですが、当主がお待ちなのです」
「そちらの世界に、こいつは関わらない。当主に伝えろ。カナリアは、鴉の保護下にある。鴉の領域を侵せばどうなるか、おまえたちの一族はよく知るはずだ」
「……」
無言のまま、執事はそっと引き下がった。らしい。
シルヴァンの靴先が階段に掛かって、一段ずつ昇り、上の階まで到達しても、もう声は掛からなかった。
「ごめん。なんか俺、面倒事だったっぽい……よな?」
「おまえというより、父親だろう」
「あー……」
はい。間違いなくソウデスネ。
秘密倶楽部を隠れみのに、特定の客相手にコードネームを付けたがる組織だか集団だかの当主、となると、招待状に大っぴらに名前を出している伯爵本人ではないだろう。
もう一人、誰かがいる。
俺の父親は、そいつと俺を会わせようとしたのだ。
「シ……」
シルヴァンは、と問おうとして、俺は思い直す。さらに上階を目指している、階段の途中だ。階段ってのは、どんなに潜めた声でもけっこう筒抜けなんだった。
「あなたは、それが誰か知ってるのか」
「監視対象であって、個人的な付き合いは一切ない」
王城騎士団近衛隊第一隊の担う「警備」には、現代日本で言うところの警察や検察の役割も含まれる。要人の警備とともに、彼らが悪事を働かぬよう、監視する目ともなるのだ。いざ不法行為が暴かれれば、正しく裁くために身柄を拘束することも、第一隊の仕事だった。
「先に断っておくが、おまえにその名は聞かせられない」
俺が妙に関心を持っていると思ってか、シルヴァンは苦い声音で答える。まあ、知ったら会ったのと同じか。そして、この徹底された秘密主義には、薄ら寒いものを感じなくもない。
たぶん、暗殺組織みたいなやつなんだろう。
俺はそこへ、引き入れられるところだったのだ。……おそらくは、依頼人として。
(なるほどな)
例の『ブノワの沙汰』については、俺は進捗をまっっったく父親に報告していない。だからこそ、あの人の中では、あれはいまだに殺人計画のままなのだ。
いや、むしろ逆か。
俺が反逆しつつある気配を察して、退路を塞がねばなるまい、と彼は策を弄したわけだ。
……いやいや、どこまで腐り切った悪役なんだよ。育てて貰った恩があるから、なんていう暢気な理由でのこのこと夜会に現れた俺が、まるで阿呆じゃないか。
「つまり、あなたは……俺を護るために今日、ここに来た?」
「リオン」
シルヴァンに示されるまま、目の前に立つ扉の鍵穴に鍵を差し込む。解錠される重たい音を聞いてから、ドアノブを回した。
扉を開けながら問い掛けた俺に、シルヴァンはキスを落とす。
大きな一歩で室内へ踏み入ったシルヴァンが、その背中にばたんと扉を閉ざした後だ。唇よりも先に触れ合った互いの仮面が、ばらばらっと剥がれ落ちていった。
「んっ……」
「リオン。好きだ」
それが答えだった。
――だってシルヴァンは、今日の昼にはまだ、王都にも戻っていなかった。なのに。
「俺のために、どんだけ急いでくれたんだ」
「……第一隊には」
俺は扉に鍵を掛けてから、同じ手を伸ばして、シルヴァンの首すじに縋り付く。そうされることで結果的にキスを封じられた格好のシルヴァンは、むずがるように俺に頭を寄せた。言葉にしない抗議が、可愛い。
「自身が受けている風の精霊の加護を、馬に付与出来る者がいる」
それ、いいな。精霊の力を得た馬は、風よりも早く駆けるはずだ。
「夜会のことは、エリクから報告を受けた?」
「そうだ」
俺のすぐ耳元で、シルヴァンが頷いた。
「おまえに接触してきたら報せろと、要注意人物のリストを託している。……俺とおまえが「親しい」ことは、王城内ではそろそろ周知の事実だ。用心は、し過ぎるということはない」
王国内の各都市間には、飲料用・農業用・連絡用を兼ねた大規模な水路が通っている。とはいえそんなもの、新米の近衛騎士の身分で気楽に使えるような施設じゃないことは確かだ。
エリクは果たして、どんな無茶を通したんだろう。……案外、抜け道を優遇してくれる便利なコネなんかをさらっと持っていそうでもあるが。
「おまえの従兄殿は有能だ。それに、おまえのことを本当に案じているよな」
「うん。良いやつなんだ」
「落とすぞ」
不意に言われて、俺は「え」と瞬く。そうする間に、背中にばさりと音が立って、シーツに落っこちたのがわかった。いっしょに、俺の真上に、シルヴァンのでかい体躯が被さってくる。
ベッドへと二人で倒れ込む勢いのままキスをされたら、ちょっとだけ歯が当たった。
「んんっ」
「すまない」
「ん、ん、……好き」
キスに次ぐ、キス。その合間に謝られて、耳に届いたしょんぼりした声がやっぱり可愛くて、想いが溢れる。
「好きだ」
「リオン」
「……シルヴァンのことが、好きなんだ」
どうして、いつの間に、なんて問うだけ無駄というものだ。
始めから俺は、シルヴァンのことが怖かった。
(だって)
俺たち声優が行うアフレコは、ただ役の声を作って喋ればいいってわけじゃない。恐れ多くも、「キャラクターに命を吹き込む」とさえ言ってもらえるんだぞ。
そのためには、キャラクターのことは誰よりも研究する。そいつの考え方も、生き方も、まるごと俺自身の心の中に飲み込み、しっかり噛み砕いて、血肉に溶け込むほど深く理解するんだ。
俺もそうして、シルヴァンを演じてた。
(俺が――シルヴァンの、命を)
聞いて驚け。
前世からずっと、俺はあんたを愛してやまないんだ。……心臓の真ん中を、もうとっくに捧げてるんだよ。
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