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 この世界における本は、まだまだ贅沢品の類いと言える。  俺の勤める書店も、主な顧客は貴族たちだ。  彼らが本を求める理由は、さまざまある。純粋に読むことが好きな人もいれば、稀少本のコレクター、自身のステータスを示すために値の張るものを買い揃える向きまで、多種多様だった。  一人一人の客が何を求めているのかを知り、「欲しい」と言ってもらえるような本を選別するのが、俺の仕事である。  ところで、この地方都市が言うところの「貴族」は、当然ながら王都に住まう上級貴族たちとは別物だった。土地柄もあり、彼らのほとんどはむしろ「上級商人」といった風情だ。  だからこそ、俺は身バレの心配をする必要もなかった。  もちろん彼らとて、現宰相を務めるリッシュ家の名くらいは一般常識として備えている。ついでに、「そこの嫡男がある日ふと消えたようだ」という話までは伝え聞いていても、では肝心のその嫡男とやらはどんな人物なのか、となると、誰に聞いてもぐだぐだだった。 『カール? フィリップ? なんて言ったかしら。とにかく、ひどい放蕩息子だったのよね?』  本当にびっくりするくらい、誰も正確な話を知らない。人相どころか、名前すらみんな違うことを言うのだ。 『アドルフだろう。俺が聞いた話じゃ、見るに堪えない醜男で、性根も最悪。周り中から嫌われてたんだってよ』  ほかにも、酒と女に溺れて身を持ち崩したために勘当されたクズ男だとか、良からぬ魔術研究にハマった危険人物なのだとか、それはもう好き勝手にさんざん言われていて、むしろ俺は、彼らの無責任過ぎる噂話を聞くのが好きだった。  そして今のところクズ男でも危険人物でもないはずの俺と言えば、今日もお仕着せの制服に身を包み、上得意様を迎えた店舗二階の特別室にて、お茶を出し、茶菓子を振る舞い、和やかな世間話をしがてら、「お求めの本」の話を引き出すなどしているわけだ。 「お疲れさま、リオン。そろそろ一階に降りておいで。子供たちが来てるよ」  常連の貴族が帰った後の特別室を片付けていた俺は、柔らかなノック音とともに扉を開いたオーナーからそう声を掛けられ、「ああ、はい」と応えて返した。 「もうそんな時間なんですね」 「うん。今日はあの子たちに、どんな本を読んであげるの?」 「たぶん前回の続きじゃないですかね。けっこう良いところでタイムアップしたんで、普通にみんなお話の先が気になってると思います」 「常連の子、増えたもんねぇ」  洗い終えたティーセットを手早く棚に戻す俺を見守りながら、オーナーはのんびりと笑う。 「そろそろあの一角も手狭かな。今後さらに子供たちが増えた時のために、棚の配置をちょっと考えようか」 「街中の子供たちが押し寄せでもしたら、びっくりですけどね」  さすがにそんなことにはならないかと、と苦笑してみせつつ、俺はオーナーが支えてくれている扉を一礼して抜けた。特段いま忙しいわけでもないらしいオーナーは、俺とともに階段までの廊下をゆったりと歩む。  店舗の一階部分、普段は試し読みスペースとしてソファセットを置いている一帯は、週に三度ほど、子供たちが集まる場所となっている。参加条件は、この会のことを知っていて、ちょっとでも興味があればOK。貴族や富裕層の子も、家に本など一冊もない庶民の子も、ひとまず区別はない。  誰のことも特別扱いはしないし、爪弾きにもしない。  俺のそういった主義は子供たちにも浸透していて、いろいろな境遇の子が顔を見せているにもかかわらず、会はいたって平穏なものだった。  なんの会なのかって?  俺の『読み聞かせ会』である。 「街中の子供どころか、大人たちまでこぞって押し寄せそうなイベントが近々、あるよね。通りの向こうの修道院だっけ。ずいぶん前から噂だけは聞いてたけど、ついにこの街にも来てくれるんだねぇ」  そういえば、と世間話の口調でオーナーは言い、俺ににこりと笑顔を向けた。 「嫉妬しちゃわない? リオン」 「なんでですか」  俺は笑う。……笑えていた、と信じたい。 「だって、あのシルヴァン第三王子殿下様だよ? もう二年……はまだ経ってないか。ノエル王女殿下八歳のお誕生日会で、それはそれは素晴らしい朗読をしたんだ、って話は、ものすごい速さでこの街にも届いて来てたからね。あれから王子様は、各地の修道院なんかを回って、見事な朗読を披露して下さってるそうじゃないか」  一気に逸った心臓の鼓動は、もはや俺を内側から壊しにかかってんじゃないのかというほどの音を立てる。落ち着け。落ち着いてくれ。  ……噂話なんか、これまでにだって、何度も聞いた。  ノエル王女殿下の誕生会で披露されたシルヴァン第三王子殿下の朗読は、王女自身ばかりか、居合わせた招待客らをもいたく感ぜしめたこと。  あまりにも賞賛の声が高かったため、急遽、王都の教会にて朗読会が行われたこと。  王国一の巨大さを誇る教会だというのに、溢れんばかりに目いっぱいの観客たちが集まり、その誰もが彼の朗読(こえ)に酔いしれたこと。  それ以降、かの第三王子殿下は、請われればどんな街にでも赴いて、無料で招いた町民たちに朗読を披露するようになったこと……。 「一生に一度は聴いておけ、と言われるくらい、心震える朗読なんだそうだよ。さすが、稀代の聖女と言われるノエル王女殿下のお兄様ってことかな? ノエル様もずいぶん懐いてるって話だもんね。でも、大丈夫。僕はリオンの朗読も好きだよ。……まあ、とは言っても、シルヴァン様の朗読の日には、もちろんお店はお休みにするけど」 「それ、いつですか」 「ん? うーんと、三日後かな。リオンも聴きに行く? ちょうど誰かを誘おうと思っていたから、良い席を二つばかり確保してもらってるよ」 「いえ」  むしろ、逆だ。  オーナーが店を閉めて朗読会へ行くというのなら、しがない店員の俺はつまり、その日は休みになる。 (逃げよう)  出来れば前日くらいから、大事を取って翌日も。  三日間、旅行にでも出よう。  この世界に有給の概念はないものの、だからこそ交渉次第で、まとまった休みだってもぎ取れるはずだ。オーナーのおっとりとした性格と、実際のところ書店だけが収入源ではない懐具合のおかげで、この店は驚くぐらい労働環境が良い。だから、望みはある。  近衛騎士の給料を程よく貯めていた上、例の副業での収入というやつがまあけっこうな王族価格であったために、俺の貯金はとてもかなり潤沢にあるのだ。旅費について心配する必要はなかった。いっそ、大奮発して船に乗ったっていい。  とにかく、逃げよう。 「リオンー、今日、なに読むの」 「おれこの前のつづきがいい! この前の! つーづーきー!!」 「ああはいはい、静かに静かに」  一階に降りるなり、わらわらと子供たちに囲まれる俺を、オーナーはするっと見捨てて定位置のカウンターの方へ向かった。……子供の扱い方はどうにもわからない、と困ったように笑う彼を知っている分、こうして『読み聞かせ会』を定着させてくれているその大らかさには、俺は感謝しきりなのだ。  ソファにもカーペットにも子供らが自由に座る中、一つだけ空けられている、真ん中のソファ。  そこが、この会での俺の定位置だった。 「じゃあ、この前の話の続きな」  そう言って、俺は座した膝の上に、大判の本を置く。重みのある扉を、ゆっくりと開いた。  小さく喉を整えてから、息を吸う。それを吐いて、(おと)にする。  ――演じることは、しない。  俺の読み聞かせは、単なるガイドだ。  子供たちの中には、文字を読めない子も多い。文字は読めるけど、本を読むのは得意じゃない子もいる。……もちろん、とにかくひたすら本好きの子なんかもいるわけだが。  俺は本の文面に忠実に、一切の脚色を加えず、地の文も、台詞も、まっすぐ平坦に読む。適宜、抑揚や強弱を付けて、だがリズムを崩さず、一定の速さで読み通してゆく。それだけだ。  それでもお話が進むごとに、子供たちは息をするのすら止めて、物語にのめり込んでくれた。俺は俺の声が届く範囲に満ちてゆく透明な集中力の濃度を感じて、口元だけでつい微笑む。  この子たちが将来の顧客になるかどうかは、オーナーには申し訳ないが、俺としては関係ない。  ただ、「本って面白い!」と感じてくれたら、嬉しいんだ。  もし自分では一冊も買うことが出来ないとしても、子供の頃のこの時間が――ここで聴いた物語が、いつか彼らの人生の支えになるかもしれない。  ……コツン、と微かに、靴音が立った。  お迎えに来た親や、終わりの時間を知らせるオーナーが、そうやってそうっと子供らの背後に現れることは珍しくない。俺は読む声が途切れないよう、少し先の文を頭に入れておく自分の集中力は保ったまま、目を上げた。  遅い午後の明るい陽差しが、明かり取りの窓から差し込む。  それを受ける漆黒の髪は、蝋燭の下で見るよりも深い色に感じられた。以前よりもやや短く整えられた毛先にはどこか潔さがあって、彼の精悍さがより際立つ。  近衛騎士の隊服を纏っていないのは、騎士としてこの街に訪れたわけではないからか。  一目で上質なものとわかる、けれど飾り気のない白シャツに、艶やかな紺色のベスト。彼はどこかで、ジャケットを侍従に預けたのかもしれない。  光を孕む緑色の瞳と、目が合った。  息を抜くように、彼が笑う。その唇が動いた。なんと言ったのかが、わかる。 「やっと、聴けたな」。  ――俺の、読み聞かせを。  なんで。 (シルヴァン)  息が止まる。  同じに、俺の声は止まった。物語の世界から我に返らされた子供たちが、あれ? と首を傾げる。 「えー、なんでやめんの。リオン」  不満の声が上がる中、俺はソファを立ち上がった。本を置く。「ごめん、急用」と告げたつもりだが、ざわつく子供らの耳に入ったものかどうか。  だが、なり振り構っていられない。  俺はそのまま、店の奥へと――脱兎のごとく、逃げ出した。

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