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俺が得た風の精霊の加護は、それほど強力だったり便利だったりはしない。出来ることと言えば、俺自身の移動速度を速めることくらい。
だが、地の利は俺にある。
シルヴァンは、店の裏手に俺の部屋があることなど知らないだろう。単にバックヤードに篭もったのだと勘違いしていてくれれば、のんびり構えてオーナーと挨拶でも交渉でも交わしている間に、俺は俺の自室へ雲隠れ出来る、というわけだ。
(なんで)
こんなに息せき切って、必死に逃走しなきゃならないんだ。
三日後って言ってなかったか!?
(俺は)
『リオン。好きだ』
この胸の中に、絶えず静かに、永遠の雪が降るように。
俺は彼の声を死ぬまで覚えていて、死の間際にだって鼓膜に蘇らせて、そうして次に生まれ変わった先でも聴くんだ。
(俺は、それでいい)
――そう、思っていたのに。
「リオン……!」
店舗の裏口から風に乗って踊り出したところで、表の通りにシルヴァンの姿を見つけた。
それで俺は察する。
(これ、ぜんぶバレてんじゃんか……っ)
俺の勤め先も、住処も、もしかしたら来歴まで。俺がこの街でどう暮らしているのかを、きっと向こうはすっかり調べ上げているに違いなかった。
オーナーのセカンドハウスには、必要最低限ながらもしっかりと使用人たちが働いている。彼らは午後のこの時間、そろそろ夕食のための準備に取り掛かる頃だ。
それがゆえに屋敷の玄関は大きく開け放たれており、俺が風とともに舞い込むことにも、なんの不都合もなかった。
二階、西側の端っこの部屋。
上がり慣れた階段を文字どおり飛ぶように上がって、普段から特に施錠もしていない自室の扉に到達する。ようやくドアノブを掴めているのに、みっともなくがたがた震える俺の手が、上手く言うことをきかない。早く。早く。
この部屋に閉じ籠もれば、シルヴァンは俺のことをすっかり忘れてくれる、なんてわけじゃない。わかってる。
それでも俺は、彼と会いたくなかった。――会ったら、終わりだ。
「っ……」
どうにかドアノブを回して、扉を引く。
一瞬後に、ばん、と同じドアが音を立てた。俺の目の前には、でかい手がある。節立った、剣を握る人の手。
俺を覆うようにして片手を伸ばしたシルヴァンは、俺が逃げ込むはずだった扉を、そうして閉ざしたのだ。
「リオン」
世界を壊す、音がする。――俺の、すぐ背後。そんなに長距離を走ったはずもないのに、彼が息を切らしているのは、それだけ必死になってくれたということなんだろうか。
「扉を、開けてくれ」
いまだに戸口を片手で強く押さえたまま、シルヴァンはそう言う。まさに開けようとしたところを、あんたに思いっ切り閉められたんだが!?
振り返って反論してやりたいのに、俺にその余裕はなかった。
「……俺を、その中に迎え入れると、言ってくれ。リオン」
「っ……」
出来ない。出来るわけがないんだ。
俺はとっさに強く、首を横に振る。それを受けて、頭上にあった声はふっと落ちた。身長差をそうやって埋めて、彼はほとんど俺を抱き締めているんじゃないか、というほどに、近くなる。
「リオン」
駄目だ。
この街に来てからも何度か引っ越しはしたけれど、俺の暮らす部屋はいつでも、俺にとっては宝箱だった。
――守る宝物は、たったひとつ。
そう。俺は自分の部屋の中でだけ、シルヴァンの声を思い出せる。自分自身に、それを許すことが出来たんだ。
その音があまりに恋しくて涙しても、寂しさに身悶えても、馬鹿みたいな夢想に溺れたって、部屋の中でなら、知るのは自分しかいない。
誰かに説明する必要もなければ、無遠慮に暴かれる恐怖とも無縁だ。
俺の力で守れるものは、彼の声音ひとつきり。
それだけで精一杯だった。
なのに、そんな場所にシルヴァン本人を迎え入れてしまったら、どうなる? 容量オーバーの物体を入れられた宝箱は、バラバラに壊れるだけだ。
そもそもこの街は、彼の暮らす世界じゃない。――王族として生まれ、王族として生きてゆくシルヴァンの世界は王城にあって、ただの平民となった俺の生活とは、決して交じることはないんだ。
だから、二度と会うつもりはなかった。
最後のあの夜が、二人の永遠になる。それで良かったんだ。その続きなんて、ひとかけらも望みはしない。
――だって、シルヴァンがあっさりとこの街を立ち去った後、俺はどうすればいい?
また死んだ宝箱を抱えて、身も世もないほど、泣き崩れるのか。たったひとりで。
「シルヴァン……」
話をするなら、このまま、ここでしよう。
俺は背後の彼に、そう言うつもりだった。
大丈夫だ。これまでだって、俺は俺を守って来たし、どうにか幸せに生かして来られた。昨日とおんなじ今日を続けてゆくために――俺は俺の平穏な日々を守るために、絶対に、シルヴァンを拒否する。
出来る。
大丈夫だ。
呪文のようにそう繰り返し念じながら、ゆっくりと背を返す。……その視界の端、扉に着いたシルヴァンの片手が、ふいにぐっと拳になった。
「……リオン」
ほとんど囁き声に等しい彼の声は、迷いなく、俺の唇の上に落ちてくる。そうっと触れてくる温もりが、羽毛のように柔らかくて優しい。
俺が驚いて顎を引くと、唇が離れる。
シルヴァンはさらに背を屈めて、俯いた俺とのキスを下から掬い上げるようにして結んだ。
(ああ)
彼が好きだ。
世界中が、もう、それだけでいい。それだけが、俺の生きる意味で、理由になる。
「リオン」
もっとくれ、とねだられるように、シルヴァンの指に顎先を掬われた。俺の顔が上向くと、キスは一層深くなる。俺はシルヴァンの背に両腕を回した。ぎゅうと、縋り付く。
なにも考えられない。
俺の突然の帰宅に気付いた執事かメイドがようすを見に上がって来るかもしれないとか、つい一瞬前まではマジでシルヴァンを追い返すつもりだったのにとか。
――会ったら、終わりだ、と思ってた。
俺がこの街で、たった一人きりで築いてきたすべての、終わりだ。小さな宝箱だった部屋も、平穏に繰り返す日々も、彼を欠いた世界で生きてゆくはずの自分自身も。
すべてすべて、バラバラに砕けて、壊れてゆく。
俺はそれを恐れていたはずなのに、いまはまるで、神様からの祝福を受け取るようだと思った。
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