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No.6「彼岸花が咲く」

偽物のフミオは本当によく眠る。 あんなモフモフした耳や尻尾を隠して生活しているのだから、かなりのエネルギーを消費しているのだろう。 夕方からまた昼寝をしだしたフミオを見ながら、本物のフミオが亡くなった頃のことを回想する。 普段は思い出さないよう心掛けているが、今朝チョコレートの色の飼い犬のことを話題にしたせいで、記憶の蓋が開いてしまったようだ。 その場面を俺は見ていないくせに、見聞きした情報だけで作り上げた映像が、頭の中で再生されていく。 雨上がりの朝、いつもの散歩コースにある川は増水していた。 ぬかるみを避けるため、フミオは犬を抱いていたという。 そこに上流からテニスボールが流れてきて、飼い犬はただ無邪気にそれに飛びつこうとしたらしい。 フミオの腕からするりと飛び出し、川へ落ちた。 それを助けようとフミオも咄嗟に川へ飛び込み、濁流に飲まれた。 フミオは泳げたし、なぜ溺れたのかは分からない。 川だってそこまで深くはなかったけれど、足に絡まるような蔓が上流からたくさん流れてきていた。 とにかく不運に不運が重なったのだ。 その頃の俺は研修医として緊急救命センターに配属されていた。 救急車から降ろされたのがびしょ濡れで意識のないフミオだったときのことは、今でも夢に見る。 足が竦んで、呼吸することすらできなくて。 そんな役に立たない俺の横で、指導医が迅速に処置するのをただ呆然と見ていた。 このシーンは想像が作り上げたものではなく、俺の記憶そのものだ。 今、こうして思い出すだけで、身体が竦む。 その思考を振り払うため、俺は畳から立ち上がった。 冷蔵庫を開け麦茶をグラスに注ぎ、それにガムシロップを入れてみる。 (ん、意外と美味い……) 甘い味覚が、俺の悲惨な記憶再生の停止ボタンを、押してくれた。 — 「こ、こんにちは」 夕方、診療所の扉が開く。 もうすぐ外に出してある『診療中』の板を、ひっくり返そうかと思っていた頃だ。 そのとき俺は、白衣を羽織ったまま患者用の簡易ベッドに腰掛け、新聞を読んでいた。 背中にはフミオが寄りかかっていて、吉田さんに借りた旅行雑誌をペラペラとめくっては「プリン食べてみたい」などとブツブツ呟いている。 つまり、完全に油断をしていた。 俺は咄嗟にフミオの手首を掴む。 だって患者にはフミオの姿が見えてしまったのだから。 これでフミオが俺の背中から離れ、彼の姿が一瞬にして視界から消えてしまったら怪談話だ。 「あぁ、スバルくん、こんにちは。どうかしたの?」 患者は灰色の犬の飼い主である17歳の彼だった。 今日は犬を連れてはおらず、一人でやってきたようだ。 発熱や腹痛、怪我など身体のどこかが調子悪いようには、見えない。 彼は俺がフミオの手首を掴んでいることが気になるようで、チラチラと目線を寄越した。 だから俺は「そこに座って。麦茶を飲むかい?」と声をかける。 「あっ、はい。ありがとうございます」 左手でフミオを掴んだまま、棚からグラスを出し、冷蔵庫を開け、麦茶を注いだ。 フミオは面白がって、されるがまま。 もし、違う患者さんだったら、一旦奥へ引っ込み、俺だけ診療所に戻ってくるという方法で、怪奇現象を回避しただろう。 けれど今回は、フミオと二人でスバルくんがしようとしている話を聞いてやりたかった。 「犬は、お留守番?」 フミオが問う。 「はい。上野の叔父さんが散歩してくれています。ぼ、僕はちょっと指のさかむけが痛くて、タクミ先生に絆創膏をもらおうかと」 本題には入りづらそうなスバルくんに、フミオが話しかける。 「このデジタルデトックス村の人は優しいね。みんな僕を受け入れてくれたよ」 どんなつもりでフミオがスバルくんにそう言ったのかは、分からない。 でもそれがきっかけになったのか、スバルくんはボソボソと自分の話を始める。 高校ではサッカー部だったこと。 チーム皆が仲良く、毎日が楽しかったこと。 あるときから密かに、チームメイトの一人に好意を持っていたこと。 そしてその人に、チームメイトの前で告白されたこと。 うれしかったけれど、誰も馬鹿にしたりしなかったけれど、気まずかったこと。 三ヶ月前の出来事らしい。 「何よりもチームメイト皆が、僕がその人を好きだと気が付いていたことに、びっくりしました。告白してくれた彼も、僕の目線が気になりだして、僕を意識するようになったって。だから皆の前で告白して、僕が同性を好きだってことを、コソコソしなくていいように、してあげたかったって」 俺にはスバルくんの話が眩しすぎて、上手い言葉をかけてはやれない。 ただ「青春真っ只中だな」と、場違いなことを思った。 「タクミはねー、フミオのことが大好きなんだよ」 軽い口調で、フミオが口にした。 彼の一人称は「僕」だから、本物のフミオのことを言っているのだろう。 「はい。二人は年が離れていても、とてもお似合いです」 スバルくんにとっては、第三者にこのエピソードを話せただけで、十分だったのかもしれない。 麦茶を飲み干し、絆創膏を欲しいと言ったことも忘れ、笑顔で帰っていった。 【9月23日水曜日】 真夜中に強い雨が降ったようだが、目が覚める頃には止んでいた。 新聞を取りに外へ出ると、朝の涼しい空気の中、真っ赤な彼岸花が何本か咲いている。 そのまま濡れた道を数メートル先まで歩き、辺りを見渡す。 そこかしこで赤い花が咲き始めていて、とてもとても美しい。 (フミオが蕾のことを教えてくれなかったら、俺は花が咲くまでこの存在に気付けなかっただろうな) 「おーい、フミオー。フミオー」 早くこの景色を見せてやりたくて、大きな声で、まだ顔を洗っているだろう彼の名を呼んだ。

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