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No.7「叱咤の声に救われる」

その日の午前中。 「寝冷えをしたのか微熱がある」という男性が診療所を訪れた。 初めて診る患者だったため、アレルギーや既往症を訊ね、カルテを作成し、診察に少し時間がかかった。 「どうぞお大事に」 そう言って見送ったとき、フミオの姿がないことに気が付く。 診療所にも、扉の向こうの私室にも気配はない。 彼岸花を見に、一人で散歩にでも出掛けたのだろうか。 そのまま放っておいても、もちろんよかった。 コックリさんとはいえ大人だし、どうせ誰にも姿は見えないのだから。 でも何となく気になり、診療所の周りをぐるっと探して回った。 普段は足を踏み入れない裏庭で、地面にしゃがみ込む後ろ姿を見つける。 俺が貸してやった服を、裾を折って身に纏っていた。 彼岸花を見ているのかと、そっと近づき背後から声をかける。 「フミオ」 彼はビクッと肩を揺らし、酷く驚いて振り向く。 覗き込むとフミオの手指は泥で汚れ、足元の濡れた土は掘り起こされたのか、少し盛り上がっていた。 「何をしていたんだ?」 彼の疚しそうな表情を、思わず問い詰めてしまう。 「な、なんでもない」 フミオはそう言って頬を拭うから、顔にまで泥がついた。 俺は彼の前に回り込み、盛り上がった土を手で掻いて、そこに何が埋められているのかを確かめる。 フミオは観念したかのように、ただそれを見ていた。 出てきたのは、クリアファイルだった。 あの鳥居の書かれたコピー用紙が挟んである、本棚に立て掛けたはずのものだ。 「おい、何を考えてるんだ!これがなかったら帰れなくなるんじゃないのか?」 俺の声は尖ってしまっていただろう。 だって、フミオの行動意図が分からなかったから。 「だって、だって。来年もこの村で、彼岸花を見たいと思ったから……」 「彼岸花?」 「それに、タクミがまたひとりぼっちになっちゃうのは、嫌だったから……」 どんどんと小さな声になっていくフミオ。 拗ねたように、そのまま口を利かなくなる。 俺も自分の感情を掴み損ね、何の返事もしてやらない。 今日は昼前に管理棟広場へ、移動販売車が来ることが分かっていたけれど、どちらからも「買い物に行こう」とは言い出さなかった。 — 昼食は、簡単にインスタントラーメンを作った。 味噌がいいか醤油がいいかもフミオに問わず、肉野菜炒めを乗せた味噌ラーメンを二つ作り、ドンッとローテーブルに置く。 そして二人して黙ったまま麺を啜った。 (あぁもう……。食べ終わったら、フミオの話をちゃんと聞いてやろう……) そう思っていたときだ。 慌ただしく診療所の扉が開いた。 「せ、先生、た、大変だ、ス、スバルが川で溺れて……」 真っ青な顔をした上野さんが、息を切らしながらそう告げた。 俺は箸を置いて立ち上がり、俊敏に彼の元へ駆け寄る。 「それで、スバルくんは?」 「い、今、運ばれてくる。移動販売車の運転手が、咄嗟に飛び込んで、た、助けてくれた。背負ってここへ、連れてきて、くれる」 扉の向こうを見ると、大柄な男性が背中にスバルくんを背負い、こちらに向かって慎重な足取りで歩いてきた。 その周りには、心配そうな吉田さんや、宮川さんの姿もある。 俺は簡易ベッドを、部屋の中央へと移動させ、すぐにそこへ寝かせられるように準備をした。 「ここへ降ろしてください」 横で上野さんが俺に状況を説明してくる。 「犬が、川に落ちたらしく、スバルは、それを助けようとして。でも、よかった。この運転手が、元自衛隊員らしくて、すぐに動いてくれて。川から引き上げて、水を吐かせてもらったら、スバルも目を開けて……命の、恩人だよ……犬も助かって、本当に、よかった……」 上野さんの声がどんどんと遠くなり、もはや何も聞こえない。 足が竦んで、手がブルブルと震えて、髪も肌も服もびしょ濡れのままのスバルくんを前にして、身体が動かなかった。 溺れて死んだフミオと、目の前の状況があまりに重なってしまったから……。 「タクミ!タクミ!しっかりして、タクミ!スバルくんは大丈夫。フミオみたいに死なないから、しっかりしなきゃダメだよ、タクミ!」 簡易ベッドを挟んだ向こう側から、偽物のフミオが叫んでいた。 俺以外には見えていないフミオの声は、他の人には届いていないようだ。 俺は顔をあげ、フミオと目を合わせる。 「タクミ、お医者さんでしょ。しっかりして」 (あぁ、そうだ。フミオの言う通りだ) 俺はコクリと頷き、大きく深呼吸をする。 そうすると、ようやく身体に血が巡り、頭が動き始めた。 「痛いところは無いかい?スバルくん」 俺の問いに、彼はコクリと頷く。 「ちょっと脈を診るよ。……うん、大丈夫。でも、水を飲んでいるし、大きな病院で一応検査をしたほうがいいだろう。吉田さん、管理棟から救急車を呼んでもらえますか?」 「は、はい」 バスタオルを何枚も持ってきて、彼の濡れた身体を拭いて、寒くないように包んでやった。 命の恩人だという移動販売車の運転手にも、村の皆がタオルを差し出してくれている。 救急車には俺が同乗した。 出発するとき、フミオに向かって、「行ってくるよ」と伝える。 他の人には、まるで宙に向かって挨拶しているように見えたかもしれない。 それでもフミオは深く頷き「行ってらっしゃい」と手を振ってくれた。 — 念のため検査入院することになったスバルくんを、近くの街から駆けつけた彼の両親に任せ、夜遅くにタクシーへ乗った。 彼は、おそらくなんの問題もなく明日には退院できるだろう。 診療所に辿りつくと、いつも早寝のフミオが起きて待っていてくれた。 シャワーを浴び私室に行くと、畳の上には布団が敷いてくれてある。 俺はフミオに「簡易ベッドで寝ろ」だなんて言う気にはならない。 ごく自然に、一緒に眠ろうとするフミオを布団に招き入れ、彼の温かさを享受した。 (いてくれてありがとう、フミオ……) 強張っていた全身の力が抜けていくのが分かり、フミオの寝息を聞くより先に、微睡みが訪れた。

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