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第一章 九話
唇を噛んだらしい。
真っ赤な血が下の歯を染めていて、人でも食ったのか、という顔をしていた。口を濯いで、顔を洗っても、鏡の中の俺は、相変わらずひっどい顔のままだった。ひどすぎて笑ってしまう。気持ち悪い。母親にそっくり。似なければこんな思いもしないで済んだのに、なんて。他責思考も親譲りかな。なんにせよ、もういない相手に恨み言を吐いてもしょうがない。
しょうがないのだ。この世の大半の嫌を飲み込める自信がある。飲み込めすぎるからこうなった。許容範囲を広げて、嫌を遠ざけて、好きを麻痺させたらこんな風になってしまった。だから、この仕上がりを批判されたら、普通に刺さり過ぎてしまう。効いてんだよ、ちゃんと。やめてくれよ。地雷なんだから。俺にとっての唯一の。嘘か、めちゃくちゃ地雷持ってるじゃん俺。たとえば、今見てる鏡とか。
「……」
普通、とか。
「何傷ついてんだよ。バーカ」
また蛇口を捻った。何度顔を洗っても嫌な記憶は流れ落ちてくれないし、口を濯いでも染み付いた鉄の味は消えてくれない。その昔、出血するほど舌の表面を洗ってみたこともあるけど、普通に鉄の味が加算されただけだったのでまったくおすすめしない。肉に染みついた穢れは、記憶でも消さない限り、蓄積されてこびりつき、今だってずっと吐きそうなのに。
「……」
なのに、ちゅーしちゃった。
……だから?
なんとも思わない。強いて言うなら、ちょっと死にたい。
綺麗なものは汚したくなるって言うけど、俺には全然わかんないや。でも、一発くらいは殴られたい気持ちだった。今なら全然、床でも舐めれる。
「と思っていた時に、涼ちゃん」
「うおっ!お前、いたのかよ……」
「せめて電気つけろよ。こえーよ」と怯えた様子で肩を上げた。俺はそれを生返事で受け流し、個室の壁に寄りかかる。
「今暇?」
人生初のナンパは、ションベン、と色気もなく断られた。
「お前は? なんでこんなとこいんの」
「んー?」
個室の中に入り、便器に蓋を空けず座り込む。暫くして、なにしてんの、とまた声をかけられた。
「……ねー涼ちゃん」
「なに」
「こっちこっち」
洗面所で手を洗う涼ちゃんの後ろ姿に、俺は手招いた。不審な顔で近づいてくる涼ちゃんの手を取って、骨ばった感触を弄ぶ。
「ねえ、しようよ」
「……は?」
「だめ?」
「ここで?」
「うん」
「えー、どうしたの」とか言いながら、まんまと中に入ってきて笑った。
「人来たら流石にバレるけど」
「俺声抑えんの上手いよ」
ひそひそと喋っていると、いけないことをしているみたいで楽しい。でも、ここ生徒会の人しか使わない場所にあるし、そんなに人が来るわけでもない。ちょっと狭くて動きづらいけど、涼ちゃんならどうせしたことあるんでしょ。俺もあるよ。学校じゃねぇけど。
「なんかお前、病んでね?」
「んふ、そうかも、なぐさめてよ」
「まあ、俺は別にいいけど」
とかいって、本当にどうでも良さそうに、ポケットからゴムが出てくる。流石だ。この軽さ。ここに来たのが涼ちゃんで本当に良かった。適当な相手を捕まえても、下手だったらダルいし。
立ち上がると、涼ちゃんが器用にベルトを外して脱がせてくる。
「すぐ入るよ、さっきまでしてたから」
「……まじ?」
涼ちゃんの目が分かりやすく興奮した。男って、こういうとこ単純だからいいよね。あんまり考えなくてよくて。女の子はもうちょっといろいろ考えないといけない。雰囲気とか、言葉とか。
「バック?」
「顔見てしたい」
何も見えないと、いろいろ考えてしまいそうで。あと、便所の壁よりは、どうせ見るならイケメンがいい。
「お前ほんと何、ドッキリとかじゃないよな?」
「ははっ、だったら?やめる?もうバッキバキだけど」
「流石に勃つわ、こんなん」
狭い個室で、足を前から持ち上げられた。首に腕を回して抱きつく。涼ちゃんのいつもつけてる香水の匂いがして、俺だってちょっと興奮してる。嘘、ほんとは結構きてる。早く奥まで埋めてほしい。
「お前、軽っ」
「んふふ、んぅ、」
欲しかったものが、入っ、てきた。
「うわ、ほんとに入るじゃん」
あ、これ──
「やばいっ、いきそうかも、……いってもいい?」
「は?」
ぞわ、とくる感覚が止められない。我慢していたぶん波がすごくて、あっけなく、のみ込まれた。
「っ、……──ッ」
ガクッと膝が揺れて、目の前の身体にしがみつく。深くなった。足が震えて、立ってらんない。
「……大丈夫?」
「……っん、……やばい」
「お前、はっや……」
「寸止め、だったから……うぅ、」
なんの言い訳にもなってない。分かってるけど、早すぎる、とは自分でも分かってる。
もう一度しがみついた。ちょっとさっきので服汚れたけど、いいや。どうせ帰るだけだし。
「はぁ、……俺今日死ぬのか?」
「なに、さっきから…っ、ふふ、っ、ぁっ……」
笑ったから中が締まる。腹の奥ではじわじわまだ火がくすぶっていて、こんなんじゃ全然足りない。
「動いていい?」
「いいよ、っ、……激しいのが、いい」
「……お前さぁ、」
涼ちゃんはなにかを言おうとして、結局下半身に負けたらしい。ゆるゆると動き出し、具合を見てから、だんだん激しくなった。
「……う、……っぅ、っうぁ……!」
突き当りの所が殴りつけられて、ちょっと息ができなくなる。
「ここ?」
「ん゙ぅっ!、ん、んっ……」
わけも分からず、頭を振って、痙攣する暇もなく次のが来る。
「……」
溶けそうな目。俺を食うことしか考えてない目。この目で見られると、ぞわぞわする。安心するような、懐かしい感覚と、同時に沸き上がる失望感。自分への。
「……っあ、……涼ちゃんっ、……涼ちゃん……っ」
どうせ俺は、誰の体温でも気持ちよくて、どうでもよくて、心が拒絶すればするほど、身体はのめり込んでいくから。だから、麻痺させる。この時だけは、俺はちょっとここにいない。
「っ、…なに?」
答えの代わりに吐息を塞いだ。
さっきのキスの味を塗り替えたくて、差し入れた舌を擦り合わせ、唾液をぐちゃぐちゃに混ぜる。
「っ……ん、…ぁ」
上からも下からも他人を摂取して、頭がクラクラしておかしくなりそう。俺、涼ちゃんのこと結構好きかも。だって、目を合わせてくれるから好き。いろいろと聞かないでいてくれるから好き。顔もかっこいいし、俺が今泣きついたところで絶対に慰めてなんてくれないところが、
「………」
好きって何。怖くないのと何が違うの。
「涼ちゃん、俺のことすき?」
「何急に。……ヤんのはいいけど付き合いたくはない」
「うは、正直すぎだろ」
「なに、失恋でもしたの」
「んー、多分。そんな感じ」
「なんだそれ」
1グラムの重みもない言葉の応酬を繰り広げ、毒にも薬にもならない快楽を追いかける。ここまで現実感を薄めてようやく、少しだけ息が吸える気がした。
だって、さっき俺のスマホに届いたメッセージに、気付いちゃったんだもん。
「ふふ、なんか、吐きそう、吐いていい?」
「うわ、最悪」
言いながら、全然止まる気配がないのはどういうつもりなのだろうか。続く揺さぶりに耐えるように口を覆う。胃がひっくり返ってしゃくり上げる。胃液の味を飲み下し、さっき見たメッセージが何度も頭のなかにチラついた。
あーあ。
今更なんの用ですか、クソ親父。
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