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第一章 十話
__?年前
夕方、嫌い
一人、嫌い
家、嫌い
学校からの帰り道はいちばん嫌い。特に一人の。今日は慎ちゃんが習い事の日だから、一人で帰らなきゃいけない。と言っても、慎ちゃんはいっぱい習い事をしているから、一緒に帰れる日は少ないんだけど。
僕はいつも公園のベンチに座って、家にかえるまでの時間をなるべく長く引き伸ばしていた。あんまり遅くなると、お父さんに怒られるから、ほんの少しだけ。ほんの少し、家にいる時間を少なくする。
近くを同級生たちが通り過ぎた。顔は知っているけど、みんなの名前は知らない。あんまり話しかけてきてくれないから。でも、いつも友達と一緒にいて楽しそう。僕がもし、あんなランドセルをガチャガチャ跳ねさせて、満面の笑みで家に帰ったらお父さんは一体どんな反応するんだろう。ちょっと面白いな。怒られちゃうかな。無視されるかな。
「……お家に帰らなくていいの?」
後ろから声が聞こえた。振り返ると、しらないおじさんが僕を覗き込んでいた。悪い人ではなさそうだったけど、知らない人とは口を聞いてはいけないと先生が言っていたから、僕は黙って、ペコリと頭を下げる。おじさんは僕の隣に座った。
「君、あれか。たそがれてるのか」
「たそがれ?」
思わず口を聞いてしまって、あ、と口を押さえる。
「ぼーっとすることだよ」
「ぼーっと、」
ぼーっと、してはいない気がする。僕は学校にいる時も、家にいる時も、ずーっと頭の中はざわざわして、そわそわして、落ち着かないから。
僕は学校の先生に言われたことを無視して、お話を続けてしまった。たぶん、僕はだれかに話を聞いて欲しかったんだと思う。
「ぼーっとしてないよ」
「そうなの?じゃあ、どうしてここに一人でいるの?」
「お家に帰りたくないから」
おじさんは詳しいことを聞いてはこなかったけれど、何か僕のことを分かってくれたような気がした。
「そっか」
「おじさんは、何してるの」
「…ん?おじさんもねぇ、家に帰りたくないのかなぁ」
おじさんは少し困ったような顔を浮かべると、ぽん、と僕の頭に手を置いた。分厚くて、あったかくて、心の奥がほっとするような手だった。
「奥さんと娘にねぇ、逃げられちゃったんだよ」
おじさんは寂しそうにそう言った。
「おじさんが悪いんだよなぁ、仕事一筋でやってきて、気がついたら、なーんにもなくなっちまった」
ははは、と笑うその横顔が切なくて、僕はおじさんの真似をして、おじさんの手に自分の手を乗っけた。
「なんにもなくないよ」
「……ん?」
「僕が、友達になってあげる」
何でそんなことをいったのか分からないけど、気がついたら、僕はそんなことを口にしていた。おじさんは目をまん丸にして、僕の手を握った。
「ありがとね」
僕も笑った。久しぶりに笑った気がする。
「おじさんは、また明日もここに来てくれる?」
「……うーん、それは難しいかなぁ」
「え、なんで?」
「引っ越さなきゃならなくなったんだ」
おじさんは握っていた僕の手を離した。あったかかったのが無くなって、冷たい風が手のひらをひんやりと撫でる。
「一人暮らしに、あの家は広すぎるから」
僕はなんとも言えなくなって、おじさんの顔を見つめた。こんな気持ちになったのは初めてだった。
「最後に遊びに来るかい?引っ越し途中で、少し散らかっているけれども」
「うん」
僕は二つ返事で頷いた。ほんの少し遊びに行くくらいなら、きっとお父さんにもバレないし。何より、一人で暇を潰すのはもう飽きちゃったから。
おじさんが立ち上がって、僕に手の平をさし出した。それを握って、僕も立ち上がる。
「じゃあ、いこうか。すぐ近くだから」
僕は頷いて、おじさんの後について行く。
ぎゅっと握られた手が、少し痛い。
✴
大通りから一つ、細い道に入った辺りだった。僕が何かを間違えたと気づいたのは。
ぐるん、と目が回って、足が浮いて、僕はおじさんに抱えられた。何だか様子が変だった。僕が何で抱っこするの、と聞いても、おじさんは何も答えてくれなかった。目の前には黒くて大きな車があって、何となく、あれに乗ってはいけない気がした。
「おじさん、降ろして……」
足がつかない。僕はおじさんを見上げた。僕を見下ろすおじさんの目は、さっきとは別人みたいだった。
「…はぁ、可愛いねぇ…」
顔が近づいて、気持ち悪くて横を向く。べろりと耳が舐められた。背筋がゾワっとして、怖くて逃げたくて、僕は思わず大きな声で叫んだ。
「やめて!離してっ!」
鼻と口を覆われた。
「うるせぇ、静かにしないと殺すぞ」
声が出なくなった。こわい。これ以上何かしたら、きっとひどい目に遭う。おじさんはきっと僕をどこかに連れて行って、最後はころすつもりなんだ。体が石になったみたいに動かない。誰か、誰か助けて__
「美月!!」
「___!」
知っている声に振り向いた。叫んだのは、息を切らせた慎ちゃんだった。かなしばりが解けたみたいに動ける様になって、手足をばたつかせておじさんの手の中で何度も叫んだ。
「〜〜ッ!!」
「あなた、誰ですか?美月の知り合いですか?」
慎ちゃんの手には防犯ブザーのついたスマホが握られていた。僕は「違う!」と何度も首を振った。その瞬間。ビーー!と警報音が響いた。音は大通りの方まで聞こえたみたいで、だんだん遠くから足音が集まってくる。
「この、クソガキッ__」
おじさんは一瞬僕を連れて行くか迷って、間に合わないと思ったのかそのまま地面に投げられた。頭を打ちそうなところを慎ちゃんが受け止めてくれて、その間におじさんは車に乗って逃げたみたいだ。車のナンバープレートを写真に撮って、慎ちゃんは難しい顔をしていた。
「慎ちゃん、何で助けに来てくれたの…?」
「今日一緒に帰る約束だっただろ」
「あれ、そうだっけ?来ないから、習い事かと思った」
「ごめん、今日はたまたまちょっと遅れた。だから美月を探したら、なんか知らない人と一緒にいるから……」
安心したら急に気が抜けてしまって、ふにゃりと慎ちゃんの胸に顔を埋めた。僕の背中をさする慎ちゃんは、何だか落ち着く匂いがする。安心したら、急に涙が込み上げてきた。
「……ぅうぅ……怖かったぁ……」
ぽんぽん頭を撫でてくれる慎ちゃんの手も、少し震えている。「ごめん」と謝った。僕は危ない人について行ったことを怒られると思ったのに、慎ちゃんはひたすら僕をぎゅっと抱きしめるだけだった。
「帰ろう」
差し出された手を握る。立ち上がると、膝にまだ力が入らなくて、慎ちゃんが身体を支えてくれた。
……帰りたくない。頭に浮かんで、足を止めた。そんなことを言ったらきっと、困らせてしまう。
「あーあ、僕が慎ちゃんの弟だったらなぁ」
そしたら毎日慎ちゃんと一緒にいれるし。慎ちゃん家のお父さんとお母さんも、すごく優しいし。一生のお願いと言うものがもしあるんだったら、僕は迷わずそうお願いするのに。
慎ちゃんが振り向いた。
長い睫毛が夕日を跳ね返してキラキラと光っている。僕は生まれてこれまで、慎ちゃんほど綺麗な人を見たことがない。
「血は繋がっていなくても、俺は美月のことが一番大切だよ」
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