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第一章 十二話

──?年前 side夏目実里 美月様は、一言で言えば不幸に愛されてしまったお方でした。  あのお方のことは、誰でも、一眼見ただけで特別だとお分かりになると思います。  奥様譲りの、整ったお顔立ち。透き通るような白さと、色素の薄い繊細な瞳。細くて柔らかな黒髪は風が吹くたびにため息が出るほどでした。    そう、美月様は、とても美しいのです。弟の葉月様も美しいお顔立ちでしたが、美月様はもう少し女性的な美しさがありました。まろやかな頬にはいつも長い睫毛の影が落ちていて、どこか寂しそうな雰囲気が不思議と人目を惹きつける。そんな魅力が、美月様にはありました。    そしてそれは、やはり私だけが感じていたものではなかったようです。  徴候はずっとありました。  旦那様は歪んだ形で愛情を注ぐ方でした。普通、自らの子供を可愛がる時、特別愛情を注ぐはずです。しかし旦那様は逆でした。旦那様は美月様を虐げることにより倒錯した欲望を満たしていたのです。  だからいつかはああなるな、と使用人の間では暗黙の理解がありました。もちろん、直接口にしたりはしません。誰がどこで聞いているかもわかりませんから。それでも、旦那様の部屋から美月様の張り裂けそうな悲鳴が聞こえた時には、思わず私達は目を見合わせました。それは、奥様がお亡くなりになった一回忌を終えたばかりの時でした。  もともと、奥様と旦那様の関係は、とても健全とは言い難いものでした。毎晩聞こえてくる悲鳴と日に日に増える奥様の痣。察するなという方が無理な話です。実際に奥様が亡くなられた時も、その遺体の状態は酷いものでした。服で見えない場所に、大量の打撲痕、内出血、切り傷、火傷。しかし旦那様は早々にお知り合いである葬儀業者に遺体を焼かせ、証拠を隠滅してしまいました。こんな分厚い壁の屋敷内で、何が行われても周囲の人間が知る由もありません。  つまり、旦那様は自分の欲望の為であれば、どんな手段も厭わない人でした。そんな人の標的に選ばれてしまったのです。    終わった後の部屋を片付ける役目は、比較的私が多かったような気がします。男性だと、美月様が怯えてしまいますから。しかしやはり、その部屋に足を踏み入れる時は毎回緊張しました。とくにここ最近は。  部屋に入ると、案の定、中はえも言われぬ匂いが立ち込めていました。人間の醜い部分を掻き集めたような匂いです。少し留まるだけで、頭がおかしくなってしまいそうで、私は部屋に入って早々窓を開けて外の空気を取り込みました。ここの窓はいつも、固く閉じられています。日の光も差し込まない遮音窓の意味は、もちろん分かっています。 「っうぅ……」  ゴソ、と背後で身じろぐ気配がして、私は振り返りました。美月様は、ぐったりと布団に横たわっています。腕に残る注射針の跡に、何点か新しいものが追加されていました。 「…いたい、痛い……いた……」  ぐしゃぐしゃに寄ったシーツから生白い足が伸びて、足元にあった得体の知れない器具を蹴り落とし、 「あ、……あ、ぁあぁあ!!」  部屋中に、擦り切れるような叫び声が響きました。美月様は発狂して、布団の上をのたうち回り、おびえて、ガタガタと歯の根を鳴らしては、シーツを被って身を縮めていました。  この頃、使われる薬の量が増えた気がします。最近になって、美月様はこのように、唐突に幻覚と痛みを訴えることが増えました。  私は急いで、持ってきていた鎮静剤を手にします。美月様の腕を引いて、ベッドに片手で固定し、血管に針をあてがいます。しかし、その注射針を見た瞬間、あからさまに美月様の身体が強ばりました。 「い、や、…嫌だ…!あ、あ、……っあ、ごめんなさい、嫌じゃ無いです……ごめんなさい……っ」 ぼろぼろと涙が伝うその頬には、新しい痣が青々と追加され、腕も、足も、腹も背中も、巧妙に跡にならない傷ばかりが付けられています。その卑劣さに、吐き気がします。こんな狂ったことをやっているのに、そこだけ僅かに理性的なのが、より不気味で質の悪いもののように感じられて。  私はなるべく力を入れずに抑えて(というのも、美月様があまり動かなかったお陰ですが)無事に鎮静剤を打ち終えると、針が抜けた瞬間、美月様はぷっつりと糸が切れたようにシーツに横たえてしまいました。呼吸音さえ聞こえないほど静かな寝顔です。こんな薬でしか、安眠を与えてあげることができないことが歯痒くて、でも私には何もすることができません。  ここの使用人は、総じて旦那様に楯突くことは許されないのです。それどころか、ただの使用人よりも、立場は弱いでしょう。なぜなら、皆旦那様に買われた身だからです。  闇金融からの借金を返済しきれなくなった者や、表社会で生きられなくなった者、反社会的勢力に追い詰められた者など、自力で生きていけない者だけが、使用人として雇われているのです。だから私達は、皆弱みを握られているのと同然。旦那様の言うことは絶対なのです。こうやって淡々と色々な体液で汚れた部屋を片付ける私もまた、とうにまともな倫理観なんてものは擦り切れてしまったのでしょう。  そして困りました。美月様が寝ていらっしゃるので、肝心のシーツが替えられません。あまり時間をかけると旦那様に怒られてしまいそうです。心苦しいですが、美月様の肩を揺すります。 「美月様、起きてください」  必要であれば、声をかけることくらいは許可されています。美月様はなかなか目を覚まされません。美月様を仰向けにして、トントン、と肩を叩きます。露わになったお顔は、幼い頃から衰えるどころか、さらに奥様に似て、美しく成長したように見えました。この吸い寄せられる様な感覚を知ってようやく、私は旦那様の美月様へ向ける欲望の片鱗を見た様な気がするのです。  そんなとき、ぱちりと、なんの予兆もなく美月様が目を覚ましました。 「……っ、すみません」 私はじろじろと見ていた後ろめたさから、慌てて離れました。美月様は鎮静剤の副作用で朦朧としていましたが、ゆっくりと瞬きを一つして、私に焦点を合わせました。 「…あ、ごめん、俺、意識とんでた……?」  少し迷って、私は首を縦に振りました。 「……やっぱり。今日なんかいつもより、酷かったからさ…」  自嘲的に笑う声は、がさがさとささくれ立っていました。時たま喉の奥で何か絡んだ様に咳払いを繰り返し、苦い表情を浮かべる美月様に、持ってきた水のコップを差し出します。 「…ありがと。えっと……」 「夏目です」 「ああそうそう。ナツメさん」  美月様が水を飲むために身体を起こそうとしました。しかし力が入らないのか、体が持ち上がらない様子です。私がその背中を支えようと手を伸ばした時、パシンと、手を跳ね除けられました。床にコップが落ち、中の水が溢れます。 「……っ、ごめん!」  無意識の反射だったのでしょう。 美月様はさっと青ざめて、それを拾おうとします。その拍子にぐらりと身体が傾いて、ベッドから身体が乗り出しました。危ない、と今度こそ手を伸ばして私は彼を抱きとめました。それがあまりに軽く、脆く、華奢で──  私はその時、胸がつまるような心地がしました。 「大丈夫ですか?」  声をかけても、返答がありません。  ただ呼吸音のみが耳をくすぐります。寝てしまわれたのでしょうか。再びベッドにお戻ししようと背中に手を回した時、消え入りそうなか細い声が耳に入りました。 「大丈夫じゃない、って、言っていい…?」  一瞬、息が止まります。  それは初めて、美月様から聞いた弱音らしい弱音だったからです。私は頭を殴られたような衝撃を受けました。 「……辛いって、言ったところで何になるの。どうせ誰も助けてなんてくれないくせに」 薬が理性を溶かしたのでしょうか。あるいは、先の言葉が皮切りになったのでしょうか。いつの間にか、私の服を掴んでいた美月様の手が震えています。 「泣くと笑えって殴られて、何が愛してるだよ、ふざけんな。どいつもこいつも気持ち悪いッ……みんな死ねばいいのに──」  それは、この世への紛れもない呪詛でした。その呪いの対象に、きっと私も入っています。でも、呪われても当然だと思います。何もかもを知っていてなお、助ける素振りも見せない、見て見ぬ振りを正当化している人間など。 「そうだ、死ねよ。死ね死ねしねッ……殺してやる、いつか、ぜったい絶対に…」 そうして突然、美月様が身体を起こしました。おぼつかない足取りで立ち上がり、私はただただ打ちのめされて、唖然とその光景を見ていました。  美月様は机に向かい、鎮静剤の予備の注射器を掴むと、乱暴に自身の腕に突き刺しました。 「……お止めください!」 慌てて止めに入りますが、針はすでに深く突き刺さり、中身を早々に空にしていました。それを打つ美月様には何の表情もなく、いまや注射針の痛みにも躊躇などありません。ずず、と雑に針を抜いて、空の注射器を投げ捨てて、そうしてまた視線を忙しなく彷徨わせました。 「ねえ、もっとないの、これ。……なんか、今、正気じゃいられないんだ…」 「ないです」 「じゃあ何でもいいよ。睡眠薬とか──」 「美月様!」 先程の注射だけでも危険なのです。旦那様に使われた薬さえ抜けていない今、これ以上別の薬を摂取したらいよいよ死んでしまいます。  美月様は、再びベッドに横たえ、緩慢な動作で私を見上げました。その後、手招く仕草をされたので、私は恐々としながら近寄りました。「手」と言って差し出された手に、戸惑いながら自身の右手を重ねます。 「……っ!」 ぐい、と引っ張られて、バランスを崩しました。勢いでベッドに乗り上げて、美月様のお顔の横に手をついた時、息を呑むほど綺麗な微笑みが目の前に広がりました。 「ねえ、一緒に死んでよ」  蕩けるような響きでした。どこか夢見心地で、それでいて気を抜いたら足を取られそうな。深い沼のような真っ黒な瞳に、底無しの寂しさが滲んでいて。  私はハッと我に帰り、慌てて首を横に振ります。 「……だよね」  美月様は今度は私の手を、自身の喉に持っていきました。 「じゃあ、このまま、締めて」  どくどくと脈打つ首筋に、息を呑みます。そこには既に、濃い指の跡や、縄の跡が刻まれていました。内出血のようなそれを指先でなぞった瞬間、気が遠くなるような心地がします。 「締めて、ぎゅーっと。……中途半端に止めないでね………あいつらみたいに。一番辛いんだ」  もう止めてください。  口をつきかけて、止めます。美月様の悲嘆が、手のひらを通じてこちらに染み込んでくるようでした。  美月様は、きっともう、消えてしまいたいのです。死を、終わりを、何より望んでいるのです。それを知ってしまったらもう、叶えてあげたいと。無意識に手のひらに力がこもります。ぐっと抑えた動脈の熱さ。気道を塞ぐ強さに、美月様の眉根が、ぎゅっと寄せられます。 「……これ、やばいね……頭、溶けそう……」  今ならちゃんと死ねるかな。  そう言う寂しげな微笑みが、今にも消えてしまうなんて。ハッとして、頭から冷水を浴びせられたような心地になりました。  美月様は美しいお方です。可哀想なお方です。私のようなつまらない人間が、その命を奪っていいはずがありません。 「出来ません!」  咄嗟に、手を離してしまいました。美月様が一番して欲しくない事を、してしまいました。  案の定、激しく噎せた美月様は、ヒューヒューと辛そうに肺を鳴らします。  私は慌ててベッドから飛び降りて、腰が抜けて床に座り込んだまま、ただただ何も出来ずにその様子を眺めていました。 「……っ、まぁ……そう、なるよね」  美月様は、怒りませんでした。むしろ、その瞳には一切の感情も読み取れません。深い深い諦念だけが、言葉の端々に滲みます。  美月様は今にも床に伏しそうな身体で這いながら、部屋の窓枠に腰掛けました。  ここは、3階です。 「人の手なんて………何より確実じゃないの、信じるわけないし。それに、……今ならきっと怖くない」  窓の分厚いシャッターを開けました。 「────やめてっ!!!」  私は叫んで、窓枠に飛びつきました。躊躇なく足を掛けた美月様の腕を掴み、部屋の中へ投げ飛ばします。  力の入らない美月様は、壊れた人形のように軽く床に転がり、勢いでベッドの足に頭をぶつけました。 「いっ……!」  後頭部を押さえて蹲る美月様の上に、乗り上げます。美月様は何度も起きあがろうとしますが、その力は、女の私でも抑え込めるぐらいには微々たるものでした。 「………なんで、お願い。邪魔しないでよ…」  宝石のような大きな瞳に、じわりと涙が浮かびます。華奢な肩が震えて、どうしようもなく、切なくなりました。 「……父さんに、殺されたくないんだ」 そう仰る美月様の唇は、漂白されたように血の気が引いています。 「俺は、母さんみたいにはならない。……なりたくない。あんな死に方はしたくない」  俯いた頬にぼろりと涙が溢れて、そうしてついに、決壊したように泣きました。  もう、限界でした。声を上げ、しゃくり上げて泣く姿は年相応の子供です。私達は一体、今まで何を見ていたのでしょう。私の目の前にいるのは何も特別でない、普通の子供でした。能力や容姿で勝手に特別だと決め込んで、どんな酷い扱いをされていたとしても、それは特別であるから仕方ないのだと。そう思い込んでいた大人達の方がよっぽど異常です。  何と間違ったことをしていたのでしょう。これまで苦しんでいる美月様のお声を聞こうともしないで、淡々と行為の後の部屋を、また次回のために整えていたなんて。美月様は一体どんなお気持ちでその光景を眺めていたのでしょうか。途方もない罪悪感と、後悔が胸を押し寄せます。 「代わって、あげましょうか?」  気がついたらそんな言葉が口から零れ出ていました。吸い寄せられるような瞳が、ぱちりと瞬きます。言葉は勝手に口をついて、止まりませんでした。 「代わって下さい。私、旦那様のことを、ずっとお慕いしておりました」 自分がとんでもなく酔狂なことを口にしているのは理解しています。でも、もう見て見ぬふりはできなかったのです。なぜ、この様な美しい人が、こんな目に遭わなければならないのでしょうか。私がこの屋敷に使わされた時から何年も、ずっと弱り果てていくお姿を見続けてきたのです。出過ぎた真似だとは理解しています。しかし、私の身一つで少しでも美月様のお役に立てるなら、それがどんな運命であったとしても、私はあなたの力になりたい。  泣き疲れた美月様の意識は、いよいよ糸が切れる寸前でした。 「……嘘つき。優しいね」  美月様はそう言って、薬の眠気に連れられるまま、意識を飛ばしました。鎮静剤が効きすぎたせいです。きっと、今の会話を美月様は覚えていないでしょう。それでいいのです。  何とか新しく変えたシーツに美月様を横たわらせて、私は部屋を出ました。全てを捨てるつもりで、旦那様のお部屋の扉を叩くために。

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