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第一章 十三話
覚悟はしていたつもりだった。
屋敷の敷地に足を踏み入れた瞬間の、どっとまとわりつく空気。みぞおちがキリキリと痛む。前の晩から何も入る気がしない胃の中で、胃液が粘膜を食い荒らしていた。
一年半の家出生活はあっさりと終わりを迎えた。メッセージ一つで。
出来る事なら誰にも遭遇したくないという望みは、玄関に足を踏み入れて早々砕け散った。丁度家を出るところだった弟は、俺を見た瞬間、信じられない、という顔で瞠目していた。
「あ」
「……兄さん?」
「久しぶり」
「うそ……」
しばらく見ない内に、かなり縦に伸びた気がする。葉月が抱えていた鞄が床に落ちて、足元に教科書が散らばった。満足に靴もはかないまま駆け寄ってきて、抱きしめられる。
昨日の今日で他人の体温を感じると、何とも言えない気恥ずかしさがある。温もりと愛情が結びつかない俺に、こうも無邪気に触れてくるのは弟くらい。
「え、でか。身長伸びた?」
「伸びた。8センチくらい」
「え、越された……」
「兄さん、もう帰ってこないかと思ってた」
頭をぐりぐり肩口に押し付けて、あんまりにも消えそうな声で言う。
「大袈裟だなぁ」
そのつもりだった、とは、さすがに口にしない。
ここぞとばかりにぐりぐり甘えてくるから、葉月も葉月なりに寂しかったんだな、と。少し申し訳なくなってくる。
でも、そんなにくっつかれると、葉月のワイシャツに黒染めが付きそうでこわい。一度脱色すると色が抜けやすいから。ちなみに、今はピアスも全部取ってきた。非行は親にばれずに行うのが醍醐味であって。仕置きの種はできる限り減らすのが身に染み付いた生活の知恵だ。
「だって!全然連絡返さないし!心配してたんだよ」
「あは、ごめんごめん」
「……全然悪いと思ってないでしょ」
納得していない様子の葉月は、それでも深くは追求してこなかった。
「じゃあね、学校でしょ。遅刻するよ」
余計なことを喋る前に、早く入ろう。
靴を脱ごうとしゃがむ腕を掴まれて、振り返る。
「なんで帰ってきたの」
俺は何も言わずに見返した。答えないことが答えだった。
「ねえ、…だめだよ、兄さん。だって……その、夏目さんは……」
葉月が何かを言いかけて、遮られるように後ろから声が響いた。
「美月」
一瞬、握られていた葉月の袖を握り返して、それに気づいた葉月の視線が刺さる。
「……はい」
振り返る。そこには二年前と何も変わらない、貼り付けたような笑みの父親の姿。
「ただいま戻りました、父さん」
背筋が強張る。冷や汗と動悸が止まらない。本当なら、今すぐにでも逃げ出してしまいたいのに、足が地面にへばりつく。ここで逃げても無駄だと知っているから。
葉月の指が、痛いくらいに俺の手首に食い込んだ。
「……っ、兄さん」
だめだよ、と目が必死に訴えてくる。俺はその手を、そっと外した。
「葉月、また後でな」
じゃあな、のほうがよっぽど優しかったかもしれない。この程度の約束すら、果たされる保証はないわけで。
「兄さっ…」
「美月、そこで何をしている。早く上がりなさい」
「はい」
葉月は名残惜しそうに俺の手を離した。それがきっと、正しい。この家で生きる限りは。
靴を脱ぎ、父の後ろをついて行く。
背中に突き刺さる視線は、見ないふりをして。
✴
湿った空気がじっとり肌に張り付く。2階の最奥。父の執務室。紙とインクと、古臭い香水の匂い。思い出した。三回ノックして、開けたらいつも知らない人がいた。俺はその人達に頭を下げて、父はそれを見ていつもこう言った。
「いきなり呼び出して悪いな」
執務室の扉が閉まった。父が振り返り、微笑む。それがどんな残酷な色を浮かべるかも全部知っているのに、少しも手足が動かない。中に入ってすぐ、後ろから抱きしめられ、生ぬるい体温が背中に張り付いた。
「ああ、美月。久しぶりだな」
喉が潰れたように声が出ない。力も入れてないのに、握りしめた手のひらに、爪が食い込む。
声が、だめだった。顔も、場所も、匂いも全部全部。胃の底が抜けるんじゃないかというほどの痛みが襲って、胃酸が喉を逆流する。苦い唾を飲み込んで、身体を這い回る手の感触に、息を止めて。
「相変わらず細いな、ちゃんと食べてるのか?」
でも、確実に前より耐性がなくなっている。
「しばらく見ない内に、ますます母さんに似てきて……」
呪いの言葉だった。生温い手のひらに頬を包まれて、上向かされる。
「美月、」
一歩、後退ろうとして、腰を抱かれた。
ああ、だめだ。これでは、怒られてしまう。
父の顔が近づいた。
「会えて嬉しいよ」
引き攣りそうになる吐息を塞ぐように、唇が合わさった。
「…っん……!」
だめだ、抵抗しちゃだめだ。
突き飛ばしたい衝動を、手の中で押し殺して。心を、凍結させて。そうして今だけ耐えればと自分に言い聞かせてきた。
今だけ、この瞬間だけ。気が狂うほど長い一秒を、無限に繰り返した。
いつか、いつか救われると、そう期待して、叶った。中学二年の夏。俺は確かに解放されたはずだった。
でも結局、こうして今、ここにいる。
じゃあ、今度は……いつまで?
「っ、…」
血の気が引いて、頭の中が真っ暗になった。服の裾を捲られ、その中を父の手が這うたびに、勝手に上擦った声が漏れる。体と心が分離していく。俺がおかしくなってしまう前に、唇が離れた隙をついて、一番聞きたかった事を口にした。
「……父さん、ナツメさんは?」
夏目実里。おそらく、俺の身代わりになってくれた人。父のことが好きだったなんて、きっと嘘だ。彼女はとても聡明で、言葉も笑顔も少なかったけど、とても優しい人だった。俺はそれに気づいていた。気づいたけれど、何もしなかった。助かりたかった。自分だけでも。
でも結局、このざまで。
父は、何も答えなかった。答えない代わりに、瞳の奥に一瞬、残酷な色が渦巻いた。
「やっぱりお前が一番だよ。美月」
次はお前だと、告げられてるような気がした。
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