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第一章 最終話

 泥沼のような吐き気だった。  力を失った手足がシーツの上で跳ねるたび、得体の知れない水音が立つ。  四肢をもがれて弄ばれる虫にでもなった気分だ。 「あ、ぁあ、……ぅ」  暑いのか寒いのかさえわからない。ただただ、鳥肌が止まらない。目がぐるぐると回る。上か下か、はたまたこれらすべてが夢なのか。 「あぁぁあ、美月、綺麗だっ、っ、私の、私だけの……」  夢だったら最悪だ。夢の中さえ逃げ込めない。 「い゛、ぃぁぁ…ぐ、」  乾いた肉の音が響く。ずっと耳にこびりついている。貫かれ続けた内臓が悲鳴を上げて、ずり上がるたび、引き戻されて、その度心の中で何度も呪った。意識が沈んで、浮上して、また沈む。見ている景色はずっと変わらなかった。 「もう離さない、絶対に…」  絶望さえ、快楽の濁流に飲まれて流されてしまう。もう、どうでもいい。早く消えてしまいたい。 「美月っ、愛してるよ…お前は、私のものだ…」  このまま死んだら、本当にその言葉通りになってしまうのだろうか。それももういいかもしれない。……早く楽になりたい。  また針が刺さる。  視界がぐるんと上を向いた。また闇に沈んでいく。もう二度と、浮上しないことを願いながら。   ✴  目が覚めて、視界を埋める真っ白な光に、死んだのか、と信じて疑わなかった。 「……っ、まぶし」 自然光が虹彩を容赦なく突き刺してくる。次に感じたのは、消毒薬の刺激臭。 「………は?」 急激に意識が冴えた。どこ、ここ。  身体を起こす。 「いっ……」  後悔した。多分、いきなり動いちゃいけないやつだった。一瞬、脳味噌が揺れたかと思う。脳の奥がズキズキ痛み、割れそうな頭を抱えた。  そして視界に入った手首。に、刺さった管。安っぽい薄水色のカーテン。真っ白で味気ない部屋。気づかなかった。初めて来たから。  ここ、病院じゃん。 「どゆこと?」  え、生きてんの?  間抜けにも呆然としてしまった。全く予想していなかった展開だ。 「あー、………。えっと、取り敢えず、ナースコール?俺、目覚めたんですけどー、とか言えばいいの?」  言葉にすると間抜けすぎる。でも、瀕死から生還した人の作法とか知らないし。  というか、何日間寝てたんだろう。カレンダーを見ても、今が何日か把握していないのだから意味がなかった。とりあえず、月は変わってないとだけ。 「てか、なんで病院?」  まさか、あのクソ親父が救急車でも呼んだのだろうか。あり得ない。人が目の前で白目剥いて泡吹こうが、それを酒の肴にして笑ってるような奴が。 「じゃあ、どうして……」  三回目の針の感触までを思い出した。のたうち回ってゲロ吐いて、快感情が全て負に振り切った辺りで死んだと思った。  でも今病院。多分死んでない。意味がわからない。 「………」  ……まさか、助かったとでも。  薄気味悪い。真相が分からない分、いまいち喜びにも浸れない。  気まぐれに窓の方を向いた。  また頭痛に悶えることになった。これまで感じたことないほどの眩しさだ。多分、瞳孔の調節が上手くいってない。ついでにその刺激で耳奥にキーンと不快な高音がへばりついて、目の奥なのか脳なのかわからないところが抉れるほどの鈍痛を訴えてくる。 「……え、五感全滅じゃん」  じゃあもう寝よう。寝て誤魔化そう。  目を閉じるも、瞼の裏側が妙にチカチカして、動悸が早まって、慌てて目を開けた。眩しい。死にたい。 「…………」 死にそびれ。唐突に頭に浮かんだ。  俺は、一体、どうしたいんだろう。  トントン、と控えめに病室のドアがノックされた。 「わ、びっくりした……」  え、誰だろう、看護師さんかな。いきなり起きてて驚かれないかな。寝たふりとかした方がいいかな。 「……はぁい」  何て言っていいのかわからなくて、間の抜けた返事を返すと、バタン、と激しい勢いでドアが開かれた。 「は…?!」 「え、あ、」 お互い目が合って、数秒時間が止まる。 「美月……?」 「か、会長……」  会長は俺を凝視して、固まっている。  なんでここにいるの、とか、どうして病院?、とか、いろいろと疑問はあったけど、それをぶつける前に、会長は金縛りが解けたみたいにハッとすると、ものすごい勢いで近づいてきた。 「わ、え、えっと……」  ぎゅっと、会長の腕に包まれる。その温かさに、不意打ちで、心の奥の何かが緩みそうになる。 「馬鹿、お前、本当に馬鹿!どれだけ心配したと……!」 「……」 「良かった、本当に、生きててくれて…」  耳元の声は今にも消えてしまいそうで。抱きしめてくれる背中に、手を伸ばしたいけど。俺が触れちゃいけない気がして、やめた。 「……ごめん」  何も言わなくてごめん。心配かけてごめん。  なにに対するごめんなのか、考えてみても、どれもしっくりこない。 「お前が病院に運ばれた時、何があったのか信じられなかった……」  会長はぽつぽつと語った。俺が病院に運ばれたこと。慌てて駆けつけたこと。そこで初めて事情を知らされたこと。  父親が、警察に捕まったこと。   不思議と驚かなかった。驚きという感情の神経が麻痺してしまったのかも知れない。   俺の父親を通報したのは、まさかの夏目さんだった。夏目さんは俺が昔よく遊びに行っていた会長の家を覚えていたらしい。逃げ出して数日後、躊躇った末に会長の実家に助けを求めたのだ。  そして警察を呼んだ時には、俺は手遅れ。いや、見ようによっては危機一髪。俺は薬漬けだし意識不明の重体だし血液洗浄だし後遺症は残るけども。父は逮捕された。あっさりと。 「そっか…」  ………子供の頃は、家が世界の全てだった。文字通り、外に出られなかったから。解放されて、外を知った。俺は自分が逃げることばかりを考えて、父を断罪しようなどとは考える余裕がなかった。なんて、全てが言い訳じみている、とは自分でも分かってる。 「……ナツメさん、無事だったんだ」  良かった、なんて言える立場にない。でも良かった。いや、良くない。元凶の俺に見せる顔はない。 「美月……?」  あーあ、知られちゃった。 「ありがとう、心配してくれて。でももう、大丈夫だからさ」 「何が大丈夫なんだ。まだ聞きたいことはたくさんある」 「いや、嘘。ちょっと頭痛い。一人にさせて」 「美月、こっち見ろ」 「ねえ、お願い、分かってよ……」  同情も軽蔑も、されない。分かってる。ただ、俺が、俺を許せないだけ。 「……どこまで聞いたの?」 「今、お前の父親への事情聴取が続いてる。俺はまだ、なにも」 「知りたいの」 「聞くなら、お前の口から聞きたい」 「俺、自分の父親とセックスしてたよ」 「……っ」  知ってた、みたいな顔。でも、優しいね。ショックは受けてくれるんだ。 「それだけじゃない。知らないおっさんに数え切れないほど抱かれたよ。毎日、毎日、学校にもいかないで」 「……」 「引かないの?こんな汚いことしといて」 「……俺がそんな事言うと思うか?」 「ううん。言わない。会長は優しいから。こんな口で、この前ちゅーしてごめんね。だからさ、あの時も俺、全然辛くなかったよ。誰のでもしゃぶれるし、誰に犯されても何も感じない。だって、おっさんのほうがキモいし、くさいし汚いし、」 「美月」 「でも逃げた。あの子を見殺しにして。酷いよね、女の子には耐えられないもん。母さんだって、耐えられなくて死んだから。だから、父さんに呼び出された時、てっきりナツメさんも死んだのかと思って、こわくて……」  声が震えた。一度口にした懺悔は止まらなかった。 「美月、もういい」 「殺しちゃったって、思った。そしたら頭真っ白になって、俺が死ねば良かったのにって」 「美月っ!!」 「だから、ほんとはあのまま死んだって──」  助けられた分際で、絶対に口にしてはいけないことを口走るまえに、言葉は物理的に遮られた。 「………っ?!」 唇に感じる柔らかさ。自暴自棄が閉じ込められて、行き場無く口内が震える。 「ぅ……ん…!」 この感触を知っている。知っているけれど、無理矢理奪った過去と今で、立場が全く逆だった。 「ぅ、あ、っ…なに……っ、」  信じられない。  心臓が動揺だけではない激しさで脈動している。咄嗟に会長の肩を掴むけれど、押し返すどころか、力で負けてベッドに倒れ込んだ。  なんで、とか、言いたいことはたくさんあったけれど、会長の厚い舌が歯列を割り込んできた瞬間、それどころじゃなくなって、何も考えられなくなる。 「っ、ふ……ぅ」  粘膜の神経が、剥き出しみたいに敏感になっている。まずい。きもちいい。こんなので、もぞもぞしてしまう自分が浅はかすぎて、恥ずかしくて。  首筋に触れた手に、ぞわ、とした感覚が走って変な声が漏れた。もう無理。熱い。死にたい。殺してくれ。  覆い被さる会長の胸を押しても、ピクリとも動かせない。いやむしろ、俺が無理矢理した時の仕返しくらいの執念を感じる。 「っはぁ……っぁ…」  酸欠で目が回る。ぼやけた視界、鼻先五センチの距離で、少し頬を赤らめた会長が俺を睨む。 「…お前、煩い。少し黙れ」    え、ごめん無理。   「な、なななにっ……!?なんで……っ?!」 「仕返しだ馬鹿」  言い方が可愛すぎる。性懲りも無く胸がぎゅん、とした。興奮で頭が沸騰してしまいそうだったので、努めて慎重に深呼吸。咽せた。肺が弱ってるせいだった。クソが。 「全く、骨の髄まで捻くれてるな。自分で言ってて辛くなるのは止めろ」  噎せた背中を撫でてくれるのはありがたいけど、背中は神経の集まりだからやめてほしい。変な声がでそうになって、必死に咳払いで誤魔化す。 「この件に関して、お前に非なんてあるものか。お前は何も悪くない。自分をやたらに責めるのはやめろ」    それよりも、と会長が一転して弱々しい声で続けた。 「こんなに長い間一緒にいて、何も気づいてやれなかった。本当に申し訳ない」  ぽす、と肩に会長の頭の重みが乗った。弱っているのは俺だけじゃないらしい。 「いや、それは違うよ。俺が、何も言わなかっただけで」 「ああそうだなふざけるな」 「え、あれ?これってお説教なの?」  知るか、と吐いて、額を肩にぐりぐりと押し付けてくる。会長からのスキンシップは珍しい。声も、心なしかしゅんとしている気がする。 「いくら言いづらい内容とはいえ、こうもなるまで背負うな。幼馴染を少しは頼れ。そんなに俺は頼りないか……」 「いや……」  むしろ、頼れるからこそ、躊躇していた。恐れていたからこそ、巻き込みたくなかった。でも、結局はこうやって最悪な巻き込み方をしたのだから、その選択が愚かだったと今では分かる。 「終わったのかな。全部」  今度はすんなりと、受け入れられる気がした。  ああ、と会長が頷く。安心した瞬間、目頭が熱くなって、鼻の奥がツンとした。  見られたくなくて、下を向く。  そう言えば、学校は、結局辞めたんだっけ。帰る場所なんてない。頼れる身内もいない。気を紛らわせるために未来に向けた照準は、無限の不安を突きつけて、また気持ちが暗く沈んでいく。   「また何か考えてるな…」  もうずっと考えてるよ。考えすぎて頭が割れそう。目線を上げた先で、会長がなんだか珍しい顔をしていた。 「これは柳家で話し合ったんだが」  強いて言うなら、言い出しづらそう。会長のこんな顔はなかなか見れない。え、なに。なんかこわいんだけど。 「うちに養子に来ないか。」  ………………は?  斜め上の衝撃で、俺はまた起きたばかりのベッドにぶっ倒れそうになった。 ✴ 拝啓 柳美月様  突然の手紙で驚かせてしまったこと、申し訳ありません。けれど、どうしても美月様にお伝えしたいことがあり、無礼を承知でペンを執りました。 ​ まず何よりも先に、美月様、ご退院おめでとうございます。  柳様からご退院の報せを聞き、ようやく私も、胸のつかえが下りたような心地です。  そして何より、美月様が新しいお名前になられ、温かいご家族のもとで一歩を踏み出されたと聞き、心から嬉しく思っております。  私は今、あのお屋敷から遠く離れた静かな場所にいます。離れていた家族にも会えました。私は今、誰にも脅かされることなく、とても穏やかに暮らしています。  生々しい話で恐縮ですが、実のところ、私は旦那様に指一本触れられてなどいなかったのです。旦那様は、私には何の関心もありませんでした。ですから美月様、どうか私のことで、ご自身を責めるようなことはお止めくださいね。私が旦那様の元から離れた理由は、もっと別のところにありました。  私は先日、旦那様が奥様に手を掛けた証拠を掴んだのです。証拠は現在、警察の方に提出済みです。勝手な振る舞いをお許しください。しかし、旦那様がまた美月様を連れ戻そうとしているのは明らかでした。私はそれを止めたかった。そしてそれは、今でも正しい選択だったと思っております。  だから、どうかこれからは、あなたがご自身のために笑って、ご自身のために幸せになってください。それが、今の私の何よりの願いです。 ​あなたのこれからの未来が、どうか穏やかで優しい光に満ちたものでありますように。遠い空から、ずっと応援しています。 敬具 追伸 葉月様にも、どうか宜しくお伝えください。 証拠の確保に多大なるご協力を頂きました。

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