14 / 15
【14】秘密の恋
クリスマスが終わり、年が明け、新学期が始まった。
なぎ先輩から連絡が入ったのは、1月の3週目に入ったなかばのこと。
『今週末、会える?』
電話でなぎ先輩は短くそれだけ尋ねた。
「はい、大丈夫です」
日曜の午後、先輩の住む街にある公園。それが先輩の指定した場所だった。
「その公園って……」
『そう、麻青がオレを助けに来てくれたところ。覚えてる?』
「もちろん覚えてます」
家を飛び出して数日帰宅せずにいた彼が、一人ずぶ濡れになっていた夜。忘れようと思っても忘れられない。
『麻青んちからは遠くて悪いけど、来て。待ってるから』
「わかりました」
(遠くたって何時だって、先輩が待ってくれてるなら行かない選択肢なんてない)
『じゃあ、その時に』
それ以上は何も告げず、先輩は通話を切った。
彼がその日、僕にどんなことを話すつもりなのか。
話を聞く時まで、勝手に詮索するのはやめよう──なんて思っても、実際にはなかなか無理で。正直、いろいろ考えた。
よくも悪くも、振り回してきた自覚はある。でも最終的にいい方向へ向いてくれたのなら、お礼か、お詫びか……。
(もしかしたら──いやいや、バカ。期待するな)
どんな内容だってかまわない。先輩は僕から逃げないと言ってくれた。笑顔の仮面で隠さない本音を伝えてくれるなら、それで充分じゃないか。
そんなことをぐるぐる考えながら、週末までの数日を落ち着かない思いで過ごした。
そして、当日──
「来てくれてありがとう」
高台にある公園にたどり着くと、先輩はすでに僕を待っていた。
鉄棒に腰をあずけて立ち、白い息を吐いている。
もう子供たちは帰ったのか、元から人気のない公園なのか、他に人の姿はなかった。
「お待たせしてすみません」
「ううん、全然」
先輩は鉄棒から腰を上げると、コートのポケットから出した小さめの缶を僕に差し出す。
「これあげる。まだ熱いから気をつけて」
「あ、ありがとうございます」
僕はコートの中に来たセーターの袖を引き出し、直接触れないようにして手のひらで受け取った。
(……おしるこ)
「あ、チョイスー、とか思ってる?」
「いえ、えと……ちょっと意外だっただけで」
(先輩、そこまで甘党じゃなかったと思うけど……)
「コーヒーって体内冷やすし。甘いの飲んだほうが、気持ちほぐれてちゃんと話せるかなと思って」
言いながら、逆のポケットからもう1本おしるこの缶を取り出した。
「あそこ、座ろっか」
指さすのはふたつ並んだブランコ。
「先輩、座れますか?」
「大きめだから大丈夫じゃない」
さらりと言って歩き出し、向かって左側に座る。
ぎりぎりだけど、大丈夫だったようだ。僕も右側のブランコに座った。
先輩はさっそくおしるこの缶を開け、一口飲んで「あま!」と目を丸くする。
「そりゃ甘いですよ」
つい苦笑しながら缶を開けた。おしるこなんて飲むのどれくらいぶりだろうと思いながら口をつける。
(うん、甘い)
もう一口飲んで、小さく息をついてから、先輩が切り出した。
「あの夜さ……麻青に連絡するかと、この場所を教えるか、かなり葛藤した」
その言葉に、僕の記憶もあの日へとさかのぼる。見知らぬ土地で、先輩を探し回った夜。
「着信やメッセージには気づいてた。無視するつもりだったけど、近くまで来て探してるっていうし、雨降り出してきたし……」
(そうだったな……でも雨なんて気にしてられなかった。とにかく、早く見つけたくて必死で……)
「このまま無視してたら、麻青は雨の中探し続けるんだろうなって思って。結局連絡しちゃった」
「……はい、わかってました。根負けしてくれたんですよね」
(自分のことよりも、僕のことを心配してくれてたんだ。やっぱり先輩は、優しい)
「そうだね。でも、『麻青に無茶させるわけにはいかないから』って自分に言い訳してたけど……会ったら、それだけじゃなかったって気づいたよ」
(……それだけじゃない?)
疑問の目を向けた僕に、先輩はきまり悪そうな笑みを浮かべながら、
「麻青の顔を見たら、勝手に言葉が出てきたんだよね。オレ、聞かれてもないのに自分からベラベラ打ち明けてたでしょ」
(たしかに……実のお母さんとのこと、なぎ先輩のほうから話し出してくれたっけ)
「それで、話しながら思った。そうか、会ったらこうなるってわかってたから会いたくなかったんだ、って」
「……? それは、どういう……?」
「いろいろ限界だったんだと思う。麻青がオレを心配して探してくれてるって知って、会ったらすがらずにはいられないことがどこかでわかってた。オレ自身がそれを望んでしまって、もう突き放すことなんてできないって」
先輩の声にそれまでなかった熱が混じった気がして、胸がトクンと弾んだ。
手の中でぬるんでいくおしるこの缶とは逆に、体の内側が温度を上げる。
「麻青のご家族にも会って、いろんな話聞かせてもらって、温かさに触れさせてもらって。本当はあの日に、もう降参してたんだ。でもそんな自分を素直に受け入れられなくて……麻青は自分の気持ちを全部はっきり伝えてくれたのに、オレはまた逃げた」
キィ、と軋んだ音が鳴る。
左手でぐっとブランコの鎖をつかんで、先輩は体をこちらに向けた。
「ほんと情けないし、ずるいことしたなって思ってる。ごめん」
「………」
僕はなんて返したらいいかわからなくて、何も言えなかった。
先輩の声は一言一句漏らさず集中して聞いているのに、現実味を伴わない。
(だって、そんなの……こんな話、期待しちゃいそうになる……)
こんなに真剣な瞳で見つめられたら。もう一度願っていいのかと、思ってしまいそうになる。
視線を絡めたまま、張りつめた沈黙が流れた。
耳の奥で響く鼓動がうるさい。僕の表情はきっと強張っていたと思う。それを解きほぐすように、先輩が顔をほころばせた。
「今のがひとつめの話。あと、報告もあって」
「……報告?」
話題が変わり、ほっとしたような残念なような、なんともいえない心地になった。でも忘れかけていた呼吸を再開して、早鐘を打っていた心臓は少しだけ落ち着きを取り戻す。
「年末に、養父母と話した。それと来週、実の母親と会うことになってる」
「えっ、そうなんですか!?」
唐突な重大報告に、さっきまでの緊張も忘れて高い声を出してしまっていた。
(実のお母さんとももう約束を? いつの間にそこまで……)
「勇気くれコールがなかったから、まだ何もしてないと思ってた?」
「……すみません、ちょっとだけ」
(別に電話してくれるのを期待してたわけじゃないし、先輩が一人で決めて行動できたなら、それでいいんだけど)
「声聞きたいなとは思ってたけどね。麻青からもらったあの小瓶見てたら、けっこう大丈夫だった」
(……種の小瓶、見たりしてくれてるんだ)
その姿を想像すると、むずがゆいうれしさが肌をくすぐる。
「よ、よかったです。それで、言いたいことは全部言えたんですか? ご両親はなんて……?」
「うん、言えたよ。本音、全部ぶちまけた。養父母は驚いてたけど、謝ってくれたよ。『価値観を押し付けてた、苦しみをわかってあげられてなくて申し訳なかった。これからはどんなことでも、正直に話してくれたらいい』って」
「……! よかった……!」
(なぎ先輩とあのご両親なら、きっとわかり合えるって信じてたけど)
不安がなかったわけじゃない。通じたと知って、不覚にも涙が込み上げそうになってしまう。
「話してしまえば、そんなに難しいことじゃなかった。もっと早くに言っていればよかったって、自分で自分に呆れたよ」
両手で缶をもてあそびながら、最後は自虐的に笑う。
「それは伝えることができたからわかったことですよ。答えが見えてない時は、怖くて当たり前です。先輩は大切な人を傷つけたくなかったし、居場所を失いたくなかった──それだって、当たり前の感情です」
真顔で返した僕をしばらく呆けたような表情で見てから、先輩は「そうかな」とつぶやいた。
「麻青がそう言ってくれると、少し気が楽になるよ」
「じゃあどれだけでも言いますから、どんどん楽になってください」
(もうこれ以上自分を責める必要なんてない。先輩は勇気を出したんだから)
僕が伝えることでわずかでも先輩の心を軽くできるなら、いくらでも伝える。
「ふふ、ありがと」
風のような笑いを落として、先輩は缶に口をつけた。こくりと、喉が動く。
「実の母親にも、同じようにこれまで抱いてきた感情、全部話したいと思ってる。そのうえで、でも今のオレは恵まれてて幸せだから……『あなたも幸せになってください』って言えたらいいな。なんか、オレへの罪悪感で独り身貫いてるらしいから」
「……そうなんですね」
「顔も知らない相手だし、養父母と話す時のようにはいかないと思う。うまく話せる自信、まったくないし」
「きっと大丈夫ですよ、先輩なら」
「……前日、今度はさすがに麻青へ電話しちゃうかも」
ちらりと僕を見てはにかむ。僕はおおげさに胸を張ってみせた。
「ウェルカムです。待ってます」
その返しが意外だったのか、先輩は目を丸くした後でプッと噴き出す。
「はは……頼もしい」
目を細めて肩を揺らす姿は、憑き物が落ちたようにすっきりしていた。
「そんなに笑わないでくださいよ。僕は、僕にできることならいくらでもって……」
「うん、わかってる」
ふいに先輩が立ち上がった。鎖の揺れる音が、冴えた空気をかすかに震わせる。
正面に立った先輩は、缶を持たないほうの手で僕の髪に触れた。
「ここまで行動できたのも麻青のおかげ。本当にありがとう」
手のひらが柔らかく髪をなでる。そのたびに、胸がきゅううっと痛くなる。
「先輩、僕の頭なでるの多くないですか……?」
かすれた声で、そんなことしか言えない。
「だって『先輩』が触れていい場所ってここくらいじゃない?」
「え……」
どういう意味ですか──そう聞き返す前に、もう手は離れている。
先輩は近くにあったリサイクルボックスに缶を捨てに行き、戻ってきた。
「あともうひとつ、一番大事な話があるんだけど……その前に、場所を変えたいんだ。いいかな?」
(場所を?)
「かまいませんけど……どこですか?」
「オレんち」
●〇●〇
公園近くのバス停からバスに乗り、先輩の自宅へと向かう。
車内は空いていて、僕たちは2人席に並んで座った。
「麻青、緊張してない?」
「してます」
1秒もおかずに即答する。
(むしろ、緊張しないわけないよ……)
「呼んでないのに押しかけたことあるくせに」
からかうような口調に、僕はつい恨めしげな目を向けた。
「あの時とは事情が違いますよ……。それに結局、近くまで行っただけで引き返しましたし……」
「そうだけど。あの度胸があるなら今さらかまえないでよ。今回はオレが来てほしくて招くんだから。それともやっぱり嫌?」
「い、嫌ではないです、全然!」
(嫌なわけない。ただ、緊張とドキドキで死にそうなだけで……)
「じゃあ、リラックスリラックス」
ニコニコ顔で、先輩は僕の眉間を人差し指でぐりぐりする。
(そんなにしわ寄ってた? っていうか、触らないで……!)
落ち着くどころか、心臓が壊れそう。……わかっていてやられている気もする。
「もう……意地悪しないでください……」
「ごめんね。可愛くて」
「…………」
僕はもう黙っていることにした。
先輩が何を考えているのかつかみきれなくて、家に移動したいと言われてからずっと夢を見ているような気分だ。ドキドキしすぎて頭もまともに働かない。
「次で降りるよ」
先輩が降車ボタンを押した。ほどなくしてバス停に着き、停車する。降りたのは僕たちだけだった。
(ああ、この辺もなんとなく覚えてる)
先輩のマンションまでは少し歩かないといけない。並んで歩きながら、先輩が言った。
「両親もいるから、挨拶してあげて」
「……はい」
(と言われても、何を話したらいいのかわからないけど……)
やがてマンションに到着し、エレベーターで3階へ。突き当たりまで進み、307とプレートのある部屋を先輩がポケットから出した鍵で開ける。
「ただいま」
玄関を入るとまっすぐな廊下で、左右と奥にドアがあった。奥だけがガラス入りのドアで、おそらくリビングだろう。
なぎ先輩の声を受けて、すぐにそちらからパタパタとスリッパの足音が聞こえてきた。
「おかえりなさい」
シンプルな服に身を包み、髪をひとつにまとめた女性──なぎ先輩のお母さんが出てくる。
「麻青、上がって」
先輩がラックからスリッパを出して置いてくれた。お礼を言ってあがらせてもらう。先輩は元から床に揃えてあった青いスリッパに履き替えていた。
「話してた子」
なぎ先輩がお母さんに短く告げる。お母さんはこくりとうなずいて、
「お父さんもリビングにいるわ。よければ少しお話させて」
「うん」
お母さんがうれしそうに頬を和らげて廊下を歩き出す。続いた先輩のコートの袖を、僕はこっそりと引っ張った。
「あ、あの、先輩」
「ん、何?」
「さっきの『話してた』って……?」
(いったい僕のこと、どんなふうに説明してるの)
「だから、そんなかまえなくていいって。オレにきっかけをくれた子って言ってあるだけ。間違ってないでしょ」
先輩は小声でさらっと答えてリビングに入っていく。僕も続けて入ると、ソファから移動してきたらしいお父さんが、お母さんの傍に立つところだった。
部屋の入口に近いところで、4人が向かい合う。なぎ先輩が僕の背中に触れた。
「後輩の麻青。11月の、帰ってくる前の日に泊めてくれたのもこの子」
そう聞くと、ご両親は感慨深げに目をすがめる。
「そうか、あの時も……」
「あ……ほ、穂村麻青です。はじめまして」
このタイミングで合っていたかわからないけど、名乗ってペコッとお辞儀をした。ご両親は優しい面差しのままうなずいて、
「麻青くん。その節は渚がお世話になりました」
「あなたがいなければ、渚はもっと苦しい思いをしていたわ。渚を救ってくれてありがとう」
「えっ……いえ、そんな……」
(先輩、本当にどんな説明したの……!?)
大人の人2人に深々と感謝されて、恐縮を通り越してうろたえてしまう。でもご両親はまだ感謝を伝えきれていないという顔で、
「今度改めて、何かお礼をさせてちょうだい」
「そうだ。よかったら今夜、一緒に食事でも──」
(お礼!? いやいや、そんな)
「いえっ、あの──僕は先輩が普通に笑ってくれてれば、それだけで幸せなので!」
うろたえまくった結果上ずった声で叫ぶと、3人が一斉にきょとんとした顔で僕を見た。
(う、うわぁ……変なこと言っちゃった!?)
全身が羞恥で熱くなる。数秒、微妙な空気が流れたけれど……
「ふっ……」
隣で、先輩が小さく笑った。そして彼は僕の背中を抱くと、
「今日は二人で話したいから、食事はまた今度。もう行くね、父さん母さん」
ご両親に告げ、僕を促す。背中に腕を回されたままリビングを出て、廊下を引き返して左手にある部屋へと招き入れられた。
(ここ、なぎ先輩の部屋……?)
まだ狼狽を引きずりつつ、周囲を見回す。僕を先に入れた先輩がドアを閉める音を、背後で聞いた。
「すみません、先輩。さっき僕緊張しちゃ──」
振り返って言いかけた言葉が途中で途切れる。
両腕で強く引き寄せ、抱きしめられて。胸に顔を押し付ける形になって、声はその中に吸い込まれてしまった。
(え……えっ……!?)
ぎゅうっと、背中に回った腕にますます力がこもる。もうぴったりくっついているのに、さらにもっと。自分の中に僕の全部を閉じ込めようとするかのように、先輩は抱擁を強めた。
「……あ、のっ……せんぱ……?」
(苦しい……心臓、痛い……っ)
「……順番おかしいのわかってる。でもごめん……やっぱ、いろいろ限界」
すぐ近くでくぐもった声がした。僕と同じくらい苦しそうで、熱っぽい声。
全身の血が沸騰しそうな熱さに、視界がくらむ。
(ずるいよ……こんなことされたら、頭おかしくなる……)
「……はぁ。なんであんなこと言うかなぁ」
「あんな、こと……?」
「さっきの。あんまオレを喜ばせちゃダメだよ、マジで」
(さっきって……)
『僕は先輩が普通に笑ってくれてれば、それだけで幸せなので!』
(あ、あれかな……)
「……ああ、もう」
ふーっと大きな息を吐いて、先輩は振り切るように腕を解いた。
僕は呆然と目の前の彼を見上げる。
(先輩……顔赤い。でも……多分、僕も……)
きっと僕も、同じような顔をしている。
拘束が解けて息はできるようになったはずなのに、ちっとも苦しさが消えない。吸っても吸っても酸素が足りていないみたいに、ずっと苦しくて鼓動が速い。
「……ごめん」
なんだかふてくされたような表情でもう一度詫びて、先輩は奥の壁際へと移動した。
「とりあえず、上着」
ネイビーブルーのアクセントクロスの前には、パイプ製のハンガーラックが置かれている。
「あ、はい」
ワンテンポ遅れて意図を察し、僕はいそいそとコートを脱いだ。先輩は僕のコートをかけてから自分も脱ぎ、同じようにラックへかける。
室内は低めの家具で統一され、綺麗に片付いていた。ベッドに沿ってグレーの大きなラグが敷かれ、天板がガラスのローテーブルがある。
ベッドを背もたれにして、テーブルの前に並んで腰を下ろした。
「……最後の一番大事な話、していい?」
「……はい」
ドクン、ドクン。全身が心臓になったんじゃないかと思うくらいドキドキして、体がしびれたみたいに硬直している。
先輩の顔は見れなくて、僕は抱えた膝を両手で抱き込み、自分の足先を見ていた。
「エテで最終公演した日の、オレがまた今度ちゃんと話すって言ってた件なんだけど」
(あ……先輩がバックヤードに駆け込んできた……?)
「あの日駆けつけたのは、実織から麻青がケガをしたって感じの連絡があったからなんだ」
「ケガ!?」
思わず顔を上げ、素っ頓狂な声でおうむ返しする。
(え? どうしてそんな話に?)
「し、してませんけど……」
「騙されたんだよ。流音とあらたもグル──っていうか、思いついたのはあらただって」
「ええっ!?」
(あらた、そんなこと一言も……!)
何がなんやらで混乱する僕に、なぎ先輩は苦笑して、
「心配してくれてたんだよ。だから許してあげよ」
「はぁ……別に怒ってるわけじゃなくて、びっくりしただけなんですけど……」
「そんなにびっくりしたかぁ。まぁ、麻青は全然気づいてなかったもんね。そもそも流音が実織に声かけたのだって、オレと麻青の関係をどうにかしたかったのが理由だってこと」
「え!? そうなんですか!?」
「うん。実織が流音をサプライズに誘ったのも、それが狙い。流音とあらたと実織の3人で、何かできないかって話してたらしいよ」
「う、嘘……3人とも……?」
(実織さんからるー先輩に声かけられて仲よくなったのと、サプライズに誘ったのを聞いた時も驚いたけど……)
なぎ先輩は秘密にしていたバイトだけど、みんな彼のことを大事に思っている。そんなメンバーで最後の贈り物を創り上げたいと僕も思ったから、疑いなんてカケラも持っていなかった。
「僕、全然知らなくて……」
(だから先輩はあの時、あんなに汗だくで真剣な顔してたんだ)
ようやく腑に落ちた。でも驚きのほうが大きくて、どっと体の力が抜ける。膝の上に顎をのせ、うつむいてはぁっと深い息をついた。
先輩が動く気配がする。腕が伸びてきて、指先で髪を梳くように後頭部に触れた。
「……せ、先輩……?」
「──あの時オレ、怖かった」
押さえ込まれたわけじゃないけど髪に触れられていて、なんとなく頭を動かせない。
顔が見えないまま紡がれた先輩の声は、震えを堪えるようにピンと張りつめていた。
「麻青が全然動かない、とか言われて……もしかしたら自分の前からいなくなるかもしれないって思ったら、目の前が真っ暗になった。距離を置いてきたのはオレのほうで、卒業したらもう会うこともないって思ってたはずなのに」
先輩の指先が、髪の中で少し動く。
(震え、てる……?)
僕がピクッと反応したのに気づいてか、先輩は手を離した。
僕は顔を上げる。
「多分、そう言い聞かせてただけなんだ。ただの先輩後輩のまま終わるべきなんだって」
先輩は横目で僕を見て、唇の端だけで苦く笑った。
「でも本音は、全然そんなの無理だった。麻青が手の届かないとこに行ってしまうかもしれないって思ったら、そんなの許せるか、って。あんないい子が苦しむならオレのほうが死ぬし、麻青がいないなら死んだほうがマシだって思った」
「先輩……」
『死ぬ』なんて言葉を、まったく偽りのない表情で口にする。あの時、先輩は本気でそう思ったんだ。
(そんな気持ちで……僕のために……)
ぐっと熱いものが込み上げてきて、衝動的に体が動く。床に投げ出された先輩の手に、自分の手を重ねた。
さっきまで僕に触れていた指先。もう震えてはいなかったけれど、キュッと握り込む。
先輩の瞳が驚きに揺れ、視線が絡んだ。互いに呼吸を止めてじっと見つめ合う。
「……麻青の目を見てると、いつも自分が焼かれてるような気分になる」
困ったような、でもどこか満たされたような声で、なぎ先輩が唇をゆるめた。
「や、焼かれ……?」
「うん。夏の太陽に焼かれてるみたいな」
「あ……」
(そういえば前にも、夏空や満月みたいにまぶしくて痛いって言われたっけ)
先輩の目が床に落ちる。僕が握っていた手がするりと動いて、今度は僕の指先を包み込んだ。
「……オレは自分のこと、作り物の人形みたいな人間だと思ってたから。なんで麻青がそんなオレに近づこうとしてくれるのか不思議だったし、最初は困ってた」
時折、長い指先が僕の指をなぞる。まるで僕がたしかにここにいることを確かめるように。
「耳触りのいい綺麗なことはいくらでも言えるけど、素の自分で接するなんてしてきたことない。だから踏み込まれても困るし、こんなオレが他人に踏み込むのも失礼だって、そう思ってたから」
先輩が自分と他者との間に引いていたライン。影響を与えられたくも、与えたくもないと言っていた。それは自分だけでなく、周囲を守るためでもあって……
(……よかった。やっぱり僕は、最初から間違ってなかったんだ)
今、はっきりと断言できる。
明らかに拒絶されているのに、ただ冷たい人だとは思えなかった。どんどん気になって、どうしても素顔を知りたいと願った。
(それは……冷たさの奥に、こんな優しさや悲しさがあるって、どこかで感じてたからなんだ)
「誰とも深く関わる気はなかったのに……麻青はどれだけ冷たいこと言っても、ずっとひたむきにオレを見て、寄り添おうとしてくれたよね。それに頑張り屋で、優しくて、家族が大好きで……オレにはまぶしすぎるくらい、キラキラしてて」
床の上で絡めていた手を、先輩が胸の高さまで引き上げる。
つられて視線で追うと、その先にある先輩の瞳とぶつかった。
「身を焼かれるくらい痛いのに、気になった。ダメだってわかってても、ただの可愛い後輩っていう場所にとどめておくことができなかった」
「っ……先輩……」
ああ、また息ができない。濡れた眼差しが、これまでに見たことのない色を宿している。
こんなふうにかすれた、堪え切れない想いを絞り出すような声も聞いたことがない。
(……届いたって、思ってもいいの……?)
ごまかしようのない期待に、呼吸を忘れる。
「麻青」
絡めた指先に先輩が力をこめた。
「一人でかまわないって思ってたけど、麻青だけはいなくならないでほしい。卒業で終わりにしたくない。これからもオレを見ていてほしい」
一瞬で別の空間に放り込まれたような錯覚を覚えた。
他の全部を忘れて、僕の世界は目の前の先輩だけになる。
彼の唇が紡ぐ音だけが、優しい音楽のように僕へ届いた。
「これからも、オレの可愛い麻青でいてくれる? 後輩じゃなくて、特別な人っていう意味で」
「……っ」
視界が波打って一気にうるんだ。
(ダメだ、我慢できない)
感情が熱いしずくになってあふれ出す。ポロポロ、止まらない。
「そんなの……」
(最初からそうだった。満月の下で会ったあの夜から)
「僕にとっては、とっくに特別な人ですっ……」
涙を拭うこともせず、ぼやける視界の向こうにいる大好きな人を見上げる。
「……よかった」
先輩は、溶けそうなくらい柔らかくて、幸せそうな顔で微笑んだ。
花が開いたような温かさが胸に広がって、僕はますます泣けてきてしまう。
「麻青、泣きすぎ」
「う……だ、だってっ……」
絡めた手をほどいて、その指で先輩が濡れた頬を拭ってくれる。でも、すぐにまた新しい涙が伝い落ちるのであんまり意味がない。
「うーん……」
困ったような思案声をもらして、先輩が体を寄せた。
「抱きしめていい?」
「……さっきはそんな確認しなかったのに」
「だからあれは、思わずなんだって」
恥ずかしそうに言い訳する、飾らない声。
僕たちを隔てていたラインはもう存在しない。
ありのままの姿で僕の隣にいてくれる。これからも。
(僕も傍にいたい。ずっと)
返事をする代わりに、自分から先輩の胸に飛び込んだ。
「……!」
先輩は一瞬身体を固くする。でもすぐに強張りは解け、包み込むように優しく抱き返してくれた。
(先輩、あったかい……)
伝わってくる体温に、ようやく涙が引いていく。
何も話さず、僕たちはしばらくの間、ただ抱きしめ合っていた。
先輩の息遣いが頭のすぐ上で聞こえる。二人の速い鼓動が溶け合い、ひとつになって響いている。
「長い間待たせてごめん。でも、めげずに追い続けてくれて本当にありがと」
少し体を動かして、耳元でささやかれた声が心をくすぐる。
「……謝ってもらうようなことじゃありません。僕は、どんな時間も無駄だったなんて思わないから」
(全部、必要な時間だったんだ。先輩が一歩踏み出すために)
「それに僕だって、先輩からたくさんの優しさや元気や勇気をもらいました。僕、2年になったばかりの頃の自分より、今の自分のほうがもっと好きだし、誇らしいです」
伏せていた顔を上げる。すぐ間近にある先輩の瞳をまっすぐとらえて、ありのままの想いを紡いだ。
「今の自分と、今のなぎ先輩が大好きです。先輩を好きになってよかった」
「っ……」
なぎ先輩の体がかすかに震える。空気が動いて……次の瞬間には、唇に温もりが触れていた。
(え……)
重なった温もりは、そのまましっとりと深く僕を包む。
「んっ……」
僕は瞬きするのも忘れ、ただその熱さと、濡れた感触を感じていた。
やがて唇を離した先輩は、はぁっと熱い息を吐いて、
「……また、ごめん。キスしていいかって聞く余裕なかった」
「ぁ……」
「冷静でいるの難しい。……好きすぎて」
「っ……、~~~~っ……」
ボッと全身に火がついたような気がする。
(どうしよう。絶対今、顔真っ赤……頭から湯気出てるかも……!)
でも──また泣いてしまいそうなくらい、幸せで。
「麻青といれば、オレももっと自分を好きになっていける気がする。だから絶対離れないで」
そっと額を合わせてささやかれる、たまらなく甘いお願い。
「──もう1回キスしていい?」
答えなんて、口にするまでもない。
ともだちにシェアしよう!

