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デッドエンド・エンドロール(後編)02(終)
優しいその感触に促されるように、自分が握っているものへと視線を向ける。
それは大きなナイフだった。ナイフの刃も柄も、真っ赤でヌルヌルとした液体に塗れていて、今まで気づいていなかったそのひんやりとした冷たさを手のひらの内側にはっきりと感じる。
ナイフは目の前に倒れる男に深々と突き刺さっていた。男の顔は苦悶で歪んだまま硬直していて、絶命しているのだと遅れて理解する。
人を殺してしまった。その事実を認識し、すぐにそれがどうでもよくなるほどの絶望的な現実に思い至る。
水口に、人を殺させてしまった。純粋でまっすぐで、僕なんかが関わるべきではなかった彼に、いくら外道とはいえ人の命を奪わせてしまった。
その絶望で、僕はナイフから手を離すこともできないまま、呆然と固まる。そんな僕の耳元で彼は囁いた。
「どうする? 終わらせてあげてもいいけど」
何を言われたのか理解できなかった。
最悪の人生の果てに辿り着いた最悪の今。汚したくない大切なものだからこそ手放した男が、自分のためにここに来て、自分のために人まで殺めてくれたという事実。
罪悪感と、自己嫌悪と、否定できない僅かな高揚。
これはCパートだ。バカな人生を歩んだ僕に、神様が気まぐれで与えてくれたオマケのような最後の時間。自分のことが嫌になりながらも、この願ってもない状況を受け入れたいという欲求は止まらない。
「終わる時は一緒だよ、永野さん」
震える声で、水口は言う。その目には悲壮な決意と涙が揺れていて、僕は鈍る思考をなんとか形にしようと唇を動かした。
「やだ……おわるの、やだ……」
せっかくCパートが始まったのに、このまま終わるだなんて寂しいこと言わないで。
僕も君も、もうマトモには戻れない。だったらせめて、一緒にいる間だけでもCパートを過ごしたっていいじゃないか。
「いっしょに、まだ、おわりじゃ……」
どうやれば君を繋ぎ止められるか分からず、言葉にならない感情が涙となってボロボロと流れ落ちる。
水口はそんな僕をじっと見つめた後、不意に諦めたような優しい微笑みを浮かべた。
「そうだね、まだ終わりじゃない」
ナイフが床に置かれ、抱きしめられる。視界が彼の存在だけに覆われ、その心地よさに反射的に顔をすり寄せる。
「埋めて隠そうか」
「……ん」
「全部隠して、一緒に逃げて……。それから少しの間幸せに暮らして、その後一緒に死んじゃおう?」
素敵な計画だ。本当に。
目を細め、彼の望む筋書きに思いを馳せる。
とても眠い。幸せだ。もう何も考えなくてもいいと思うぐらいに、これ以上無いほど今の僕は幸せだ。
久々に浮上した理性は、多幸感に包まれながら意識の奥深くへと沈んでいく。
そこから先、僕が僕という理性を持った状態で思考できるタイミングは、あまり多くなかった。
ずっとぼんやりとして何も考えられなくて、ただ彼に言われるままに行動して、彼が忙しなく何かの準備をしているのをただ見守っていた。
ふとした瞬間――足の裏で小枝を踏み抜き、その感触でじわりと意識が浮かび上がる。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ……」
彼が僕の手を引いて歩いている。草と土の匂いが強い。ここはきっと、どこかの山の中だ。
水口は僕をどこかに案内すると、大きな木を背にして座っているように促し、自分は少し離れた位置でスコップを手にして地面を掘り始めた。
気温は涼しいが、大陽は容赦なく照りつけてきていて、遠めで見ても彼が汗だくになっているのが分かる。
何をしているんだろう、と靄の掛かった頭で思考する。十数秒かけて、それが死体のための墓穴だと思い至り、彼の姿をぼんやりと見ているうちにその認識はぐちゃぐちゃの思考の中に埋もれていく。
風が吹き、服が肌にこすれる度に、体の奥底から切ない衝動が湧き上がる。
足りない。ついこの間まで絶えず与えられていた快楽から解放されて、体の一部が欠けてしまったかのような物足りなさが全身を蝕んでくる。
まるで体の端の方から小さな毒虫が這い上り、少しずつ己を削り貪っているかのような焦燥と快楽への期待。
僕の手は自然と、ピアス穴の空いた胸の先端と、戒めから解放されて疼く下腹部へと伸び、飼い主に躾けられた通りにそこをまさぐり始めた。
「あっ……ぅ、あ”ー、あぁ”ー…………」
聞くに堪えない声が唇から漏れ、体は地面に倒れ込み、背を丸めて快楽を追い続ける。乱暴に扱えば扱うほど脳の奥に甘い痺れが走り、半分だけ開いた口からは舌がだらしなく覗いて、奉仕先を探している。
「…ん、ぁ、イ、イクッ……うぁ、ひっ、イキますっ、イッ……」
「……永野さん」
平坦な声で忘れかけていた自分の名前を呼ばれ、絶頂に達しようとしていた体は、冷水を頭からかけられたかのように一気に現実へと引き戻される。
顔を上げ、声がした方を見ると、そこには土にまみれた水口が泣きそうな顔で立っていた。
「ぁ……」
か細く、絶望の声が喉から出る。
見られた。よりによって彼に。自分がどれだけ穢らわしい存在なのか、言い訳できないほどはっきりと分かってしまう姿を。
体を起こし、ボロボロと涙をこぼしながら、謝罪と釈明の言葉を口にしようとする。
「ごめんなさっ、ごめんなさいっ、んぅ、ひっ、いやだっ……あっ、ああっ、ン、やだっ、ぅあっ……」
口では謝罪しているのに、己の手はまだ快楽を求めて敏感なところをまさぐっていて、やめなければと思うのに水口を見つめながら、見せつけるように喘いでしまう。
嫌われる。軽蔑される。気持ちいい。僕を見て。いやだ。いやなのに。
混乱で顔をぐちゃぐちゃにしながら快楽に身をよじる僕に、水口は何かを我慢するようなしかめっ面をした後、己を落ち着かせるためか深く息を吐いた。
「……大丈夫です。無理させてごめんなさい。もう準備はできたから早く終わらせて――」
準備、という単語を耳にした瞬間、己の中のスイッチが切り替わり、中腰に屈んでいた水口の下半身へと自然と手を伸ばしていた。
「えっ……永野さん、待っ……!」
準備ができたなら奉仕しないと、性器を口に含んで、媚びた笑顔を男に向けて、望まれるままの言葉を言わないと。誘惑して、自分から腰を振って、悦ばないと。だって自分はそのためのもので、そのためだけに生きていて――
「永野さん、やめてくださいっ……!」
強く突き飛ばされ、僕の体は尻餅をつく。見上げると、様々な感情でぐちゃぐちゃに歪んだ顔をしている水口がこちらを見下ろしていた。
失望、怒り、悲しみ。彼の表情からはっきりとそれを読み取り、中途半端に戻ってきた理性が何か言わなければと口を動かす。
「ぅ、あ…………ぼくじゃ、だめ……?」
困り果てた迷子のようにぽつりと言葉を発する。こんなことを言っている場合じゃない。今すぐにでも平伏して今己がしてしまった行動を謝罪しないといけないのに、思考とは裏腹に体は水口からの慈悲を求めてしまっている。
水口は浅く何度も息をして、それから僕の前にかがみ込んだ。
「巻き込んで、ごめんなさい」
「え……」
「あの男を殺して、アナタを見つけて、そこで終わりにすればよかったんです。なのに俺は、まだ後日譚があったらいいって、アナタと一緒に逃げて、共犯者になって、死体を埋めるところを見せつけて、もう逃げられないんだぞって思い知らせて、終わりにただ向かうだけだけど刺激的で幸せな日々があったらいいって、夢見ちゃって……」
水口の目の端から、堪えきれなかった涙が一筋だけ伝う。狂おしく彼の中で暴れ回る感情が、懺悔となってとめどなく彼の口から吐き出される。
それを見て僕は、歓喜していた。
情欲に浮かされた頭が、込み上げる愛しさで上書きされる。
なんだ、僕たちは同じ気持ちだったんだ。同じようにCパートを夢見ているだけなんだ。だったらもう、この先にあるのはハッピーエンドだけじゃないか。
「ごめんなさい、永野さん、本当にっ……んぅっ!?」
謝罪を続ける彼の唇を自分の唇で強引に塞ぐ。舌をねじ込み、絡ませ、呼吸を奪うように深く長く口づけを交わす。
きっとそういうキスに慣れていないから酸欠になったのだろう。水口の体はぐらりと前に傾き、僕をちょうど地面に押し倒すような姿勢で倒れ込む。その拍子に僕たちの唇は離れ、水口は顔を真っ赤に染めてぜえぜえと息をしながら、至近距離から僕を見下ろした。
僕はうまく動かない舌をゆっくりと動かして、彼に本当に伝えたい一言を口にする。
「みずぐちくん、すき、だいすきっ」
幸せで顔が情けなく緩む。驚いたように目を見開く彼の顔に手を伸ばし、パーツの一つ一つを愛しげに指でなぞる。
この裏側にはきっと彼の情欲がある。それをぶつけられてもいい。ぶつけられなくても、それでいい。
君とともにいれば、この後日譚はきっと終わることはない。それがどんな内容でも僕はきっと、すごく幸せだ。
「きみと、ずっと、いっしょがいい」
彼の首に腕を回して、ぎゅっと体を寄せる。汗ばんだ彼の匂いが、火照った体温が、今自分が世界で一番幸せな物語の中にいると確信させてくれる。
水口は少しの沈黙の後――まるで命綱を握りしめるかのような慎重さで、僕の体をきつく抱きしめ返してきた。
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