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吊られた男(前編)03

 部屋から出ると、屋敷は妙な静けさに包まれていた。雅司は俺の手を握り、まるで淑女をエスコートするような優雅な所作で俺をどこかへと導いていく。 「あの……義兄さん……」 「何でしょう?」  振り返り、完璧な笑顔を浮かべる彼に、何かを尋ねることなどできるわけがなかった。  どこに連れて行かれるのか分からなくて、どれほど不安になっていても、彼に逆らうことはしたくない。俺は彼の顔を直視することすら恐ろしくなって、ただ俯いて彼に手を引かれるまま歩いていった。  永遠にも思えるほど長い廊下を渡り、俺たちは使用人のための裏口から屋敷の外に出た。そこには各種資材や道具が積み上げられており、生まれてこの方一度も近づいてこなかったそこに足を踏み入れているということに罪悪感を覚えてしまう。  緊張と恐怖から自然と雅司と繋いだ手に力が入ってしまい、彼が頭上で小さく苦笑するのが聞こえた。 「ふふ、怖いんですか?」 「っ……」  何気なく口にされたその問いは、俺に激しい羞恥をもたらした。男なのに情けない、小心者、臆病だと評されてきた自分を、直接的に詰られているように思えたのだ。 「……ごめんなさい」 「何故謝るんです?」 「だって、こんな何でもないことで怯えて、情けなくて」 「恐怖は誰だって覚えるものですよ。それに今俺は、あなたを嘲笑ったわけではありません」 「え……」  予想外の言葉が降ってきて、顔を僅かに上げそうになる。だけどこのまま上を向いてしまったら、上背のある彼の目を直接見てしまうと悟り、すんでのところで踏みとどまった。 「じゃあ、どうして笑ったんですか」 「可愛らしいなと思いまして」 「かっ……!?」  瞬時、全身を駆け巡った様々な感情に声を荒げそうになった。だけどここで乱暴に怒る勇気もなくて、消え入りそうな声で俺は言う。 「嘲笑っているようなものじゃないですか。成人している男子に向かって可愛らしいだなんて」 「おや、ではあなたは雄々しいだとか逞しいと周りに言われたいのですか?」 「それは……」  己の中にそれに答えるだけのはっきりとした意見がないことに気づき、俺は言葉に詰まる。雅司はゆっくりと歩みを止め、どこかへと到着したようだった。 「裕也さんはそれでいいんですよ」  両手で優しく顔を持ち上げられ、彫像のように整った彼の顔が視界の中央に据えられる。 「雄々しくなくても、立派でなくても、あなたはそれでいいんです。俺は、あなたの全てを許しますよ」  まるで、神様のような立ち振る舞いで彼は言う。その言葉は、劣等感と全てに対するうっすらとした罪悪感ばかりで生きてきた俺にとって、喉から手が出るほど欲しいものだった。  だけど俺の内心はそれを甘んじて受け入れたいという自分と、信じられない、逃げ出したいと思う自分に二分されてしまっていた。 「で、でも、俺は、あなたのっ……」  冷静な側の自分が言葉を発する。  そうだ。どうして彼がこんなことを言ってくれているのかは分からないけれど、俺はそんな風に言葉をかけられていい存在じゃない。  全てを包み込み許してくれる彼の眼差しに浸っていたいと叫ぶ己を押し除け、こうしてここまで歩いてきた理由を震える声で発する。 「あなたの奥様をっ、俺はっ……」 「いいんですよ。そんなことは。……そこまで言うのなら、赦しを与えるための条件を出してもいいですが」  顔を包んでいた手がゆっくりと移動し、まだヒリヒリとした痛みを残している首元へと触れる。  このまま首を絞められるのか。当然だ。愛する人の命を奪ったのだから。殺されるとしても、甘んじて受け入れないと。  俺はぎゅっと目を閉じて全身を硬直させ、ガタガタと震えながら、絞首台に登る囚人のように裁きの時を待ち続ける。  だが雅司は、俺の首を愛しそうに撫でた後、再び俺の手を引いて、すぐ近くにあった納屋のドアを開いた。  ドアを開けた途端、納屋の中からは土臭い悪臭が溢れ出てきた。台所や便所の匂いにも似た生臭さと、どこか甘い印象を受ける鼻につく香り。 「裕也さん、目を開けて」  固く閉じていた瞼を、彼は氷を溶かすような甘く熱い囁きで自然と開かせる。  そこにあったのは――首が変な方向に曲がって事切れている『彼女』の死体だった・ 「この死体を、一緒に埋めてください」  俺の耳元で彼が囁く。 「そうしたら、あなたの存在を全て赦してあげますから」  愛の告白のような、神の啓示のような特別な響きのそれは、俺の脳へとあっという間に染み込んで、思考を支配してしまった。

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