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吊られた男(後編)04

「……あっ」  調べ物をするために書庫へと向かっている道中、屋敷の中でも北に位置する部屋から彼は姿を現した。  一瞬、使用人かと見まがうほどみすぼらしい雰囲気を纏った彼は、その空気とは対照的に上等な服を着ていた。  しかし服のあちらこちらには皺が寄っており、彼がこの屋敷で冷遇されているのは一目で分かった。 「に、義兄さん、はじめまして……」  上ずった声でそう挨拶され、俺はようやくその青年の正体が自分の義弟にあたる裕也だと気付いた。  あの頃、世界に無条件に肯定されていた恵まれた子どもの面影はそこにはなく、野暮ったい眼鏡のレンズの向こう側には全てに怯えているような眼差しが動揺で揺れている。  その姿を見て俺は――確かな高揚を覚えた。気鬱になって、家族から見捨てられた嫡男。あの日の己の行動が彼の人生を破壊し、彼はこちらを完全に上位の存在だと見なして怯えている。  気分が良かった。哀れで可愛らしいとすら思った。人の手に捕らえられて怯える愛玩用のネズミのようだと思った。  彼はきっと俺が、あの日の暴漢だと気付いていないのだろう。  そうだ。彼の心の傷を労るふりをして、トラウマを抉って遊ぶというのもいいかもしれない。  俺は愉悦を押し隠して一歩歩み寄ると、彼へと威厳たっぷりに微笑みかけた。 「裕也さんですね。はじめまして。この度、こちらの家に婿養子として加わった雅司といいます。どうぞよろしく」  手を差し出して握手を求めると、彼は恐る恐る手を伸ばして俺の手に重ねてきた。不健康さを感じる細く体温の低い青ざめた手。しっかりとそれを握り込むと、彼は痛みで少し顔を歪めた。  あの日、草むらに引き倒した時と同様にきつく手を握りしめながら、俺は歌うように彼に囁く。 「難しい事情を抱えていることはお聞きしています。俺のことは本当の家族だと思って、何でも相談してくださいね。俺だけはアナタの味方ですから」  心の臓に塗り込めるかのように、甘く優しい言葉をかける。だが、彼の目に浮かんでいるのは相変わらず恐怖ばかりで、こちらに心を許す兆しはどこにもなかった。  最初はこんなものか。これから徐々に心を開かせて、己に心酔させていけばいい。今まで外の世界でいくらでも同じようなことをやってきたのだ。今回もその通りにすればいい。  すぐに思い通りにはならなかった苛立ちはあったが、それを飲み込み、俺は彼から手を離す。すると彼は、怯えきった物乞いのようにぺこぺこと頭を下げながら、逃げるようにその場を後にした。  子を為す以外にも目標が出来た。どうせいずれは崩れる生活なのだ。この家について壊せるものは全て壊してから終わりたい。  裕也を懐柔するため、俺は彼との接点を作ろうとした。だが、彼は基本的に自室に籠もりきりで、食事の場にも姿を現さない。  うまく計画すら立てられないことに密かに苛立ちを覚え始めたある日の深夜。俺は、部屋の窓から裕也が外を歩いているのを目撃した。  彼の足取りはフラフラとおぼつかないもので、到底正気での行動とは思えなかった。服装も薄着で、まるで寝所に現れ、人を惑わす幽鬼が彷徨っているかのように見えた。  その日はそのまま彼を見送り、翌日、俺は自分の妻であるこの家の長女に、昨夜見たものについて尋ねた。 「そういえば昨日、裕也さんが深夜に外を歩いていたのですが……何か、理由でもあるのですか?」 「ああ、あの男のことですね……雅司さんが気にすることでもありませんよ」  嫌悪も露わにそう言う妻に、俺は色々と理屈をつけて話してくれるように頼み込んだ。  いずれはこの家を取りしきる立場になるかもしれないのだ。屋敷のことは何でも知っておきたい。何より、君の悩みの種を共有したい。君の力になりたいんだ。  カフェーで女給を口説き落とすような熱心さで言葉を連ねると、妻は重い口をようやく開いた。 「あれは、夢遊病の気があるのです。その上、正気を失い、夜中に彷徨った挙げ句――穢らわしい娼婦の真似事までしているのですよ」

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