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吊られた男(後編)10

「雅司さん、もう私、我慢できません。どうして私を抱いてくださらないのです」  彼女の憤りは正当なものだった。名家の長女。使い物にならなくなった嫡男の代わりに、自分が後継者を産まなければならない。そのための性行が、今の彼女が最も優先すべき責務なのだ。  最初俺は、彼女に対して不義理を詫びて、体を重ねようと思った。裕也との関係に耽溺してはいたが、己の当初の目的を忘れたわけではなかったからだ。  だが彼女が次に続けた言葉に、俺の意識は平静の外側へと転がり落ちた。 「あんな穢らわしい男の何がいいのです。雅司さんまで誑かすだなんてあの悪魔がっ……。そうだ、お父様に言って、遠くの静養所にでもやってしまいましょう! そうすればあなたの目も醒めるはず――ぐっ、ごがっ……!?」  彼女の首を掴んだ理由は分からない。裕也のことを悪く言われたから。彼と引き離されるかもしれないと思ったから。あるいはその両方か。  とにかく、自分の境遇を投影しつつあったあの哀れな男に対する彼女の言葉を、俺は受け入れたくなかった。自分も彼を侮辱する発言を彼自身に散々ぶつけてきたのに、いざ他人がその言葉を吐くのを見ると我慢ならなかった。 「ぐげっ……ガッ、かはっ………」  戯れではなく本気で指に力を込める。彼女の口の端から泡が垂れ、一言も発せないまま眼球がぐるりと上を向く。  ゴキッと軽い音が手元からして、彼女の体は完全に弛緩した。その感触に俺はハッと我に返り、彼女の首からようやく手を離す。  重力に従って落下した彼女の体は、中途半端に蹲って地面にへばりつくような姿勢で停止した。  死んでいる。殺してしまった。血の気が引き、呆然と立ち尽くす。目撃者はいない。だが隠そうとしてもいずれはバレるおことだ。どうすればいい。どうすれば。  焦りと混乱で目まぐるしく回る思考のまま、俺は頭を抱える。  隠すべきだ。だが隠してどうなる。彼女が俺の部屋に向かったことを知る者はきっといる。行方知れずになったら、すぐに下手人が俺だということがバレてしまうだろう。  いっそ隠さず、当主に事実を見せつけるのはどうだ。跡取りを産むべき女が死に、この家を壊すことに成功したのは間違いない。もうそれでいいじゃないか。この家への復讐以外に生きる意味なんて、今の己にはないはずだ。  コン、コン、と。  寝室の扉が小さくノックされた。続いて、か細い声で、扉を叩いた人物が呼びかけてくる。 「にいさま、俺です……にいさま……」  ぽつりぽつりと呟くように、扉の向こう側にいる義弟は言う。俺は様々な感情や葛藤が一気に引き、扉を挟んだ場所にいる存在に思考の全てが傾くのを感じた。  そうだ。あるじゃないか。どうしようもなくからっぽで復讐に身を捧げている己にも、手放したくないと願うものが。  俺はふらりと足を踏み出すと、彼の待つ扉へと向かい、それを少しだけ押し開けた。  扉の向こう側には、薄着の裕也が幽鬼のようにぼんやりと立っていた。中で何が起きているのかを察することもせず、仄かに熱の籠もった目でこちらを見上げてくる彼に、俺は優しい笑みを向ける。 「裕也さん。手伝ってほしいことがあるんです。もちろん、いいですよね?」 「はい、にいさま……」  深く思考をすることもなく、彼は従順に頷く。その無防備な顔が愛しくて、額に軽くキスを落とした後、俺は彼を寝室へと招き入れた。

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