47 / 63

吊られた男(後編)15  喪失の恐怖

「ッ、裕也さん……!」  何がどうしてこうなったのか理解するよりも先に、体は彼に向かって駆け出していた。だが彼はこちらに気付いた様子もなく、足場を蹴って首だけを支えにして中へとぶら下がる。  俺は足がもつれそうになりながら彼の元へと辿り着くと、慌ててその体を縄から解放して床へと下ろした。  もし昔、母を首吊りの縄からちゃんと下ろしていれば、もっと手間取ることなく彼を下ろすことができたのかもしれない。目まぐるしく変化する混乱した思考の片隅で、一瞬だけそんな後悔が浮かんでは消えていく。 「裕也さん、裕也さんっ……!」  上体を支える形で彼を抱え起こし、その肩を揺さぶって名前を呼ぶ。口元に手を当てると、すでに彼の呼吸は止まっていた。  死んでしまった。いやだ。まだ間に合う。何とかしないと。  彼を床に横たわらせ、唇を重ねて息を吹き込む。無理矢理にでも肺に空気を送り込み、失われていく彼の鼓動を繋ぎ止めようとする。  呼気を吹き込み、心臓の上に手のひらを置いて何度も押し込む。何時間にも思える数分の末、汗だくになった俺の下で、彼は唐突に息を吹き返した。 「カハッ……! けほっ、はっ……」 「裕也さん……! よかった、本当にっ……俺が分かりますか?」  肩を抱き寄せ、薄く目を開いた彼に呼びかける。しかし彼の唇から漏れたのは譫言めいた謝罪だった。 「ごめん、なさい……ごめんなさい……ゆるしてください……」  さっと、全身から血の気が引く思いがした。  謝罪している。懇願している。その相手は俺ではなく、きっとそこで死んでいる女だ。彼女は自分の命と引き換えに、彼の心を永遠に捕らえることに成功したのだ。このまま一生彼は、彼女への後悔を抱いて、許しを請いながら生きていくことになる。  そんなの、許せるわけがない。  己にとって一番大切な彼との繋がりを横から奪い去られたような思いがして、知らずのうちに彼の首へと手が伸びていた。 「ぐっ、ごがっ……ゲッ……」  これ以上、彼女へ向けた言葉を聞きたくなかった。聞いてしまったら、己の中の全てが壊れてしまうと思った。  背後でぶら下がった女が俺を見下ろして笑っている。許せない。もう取り戻せない。認めたくない。彼女に奪われた彼を見るぐらいなら、自分の手で終わらせてやる。行き止まりにぶつかって自棄になった思考が、破滅を望んで彼の首を絞め続ける。 「ごっ、カハッ……にい、さまっ……?」  苦しみで顔を歪めながら、彼はそうやって俺を呼び、震える手を伸ばしてきた。怒りの衝動が波が引くように一気に収まり、彼の首を絞めていた指から力が抜ける。 「ごめんな、さい……にいさま……なかないで……」  今の今まで首を絞められていたというのに、それを忘れてしまったかのような顔で、彼は俺の頬へと優しく触れる。ぽたぽたと彼の顔に落ちる雫が、汗だけではないことに指摘されて初めて気がついた。  不安、恐怖、大切な繋がりを失ってしまったかもしれないという怯えと怒りから込み上げた涙が、大粒の涙となって、彼へと降り注ぐ。 「うっ……うぅぅ……っ」  小さく唸るように泣きながら、彼の上体をきつく抱きしめる。彼はそんな俺に腕を回して、幼子を安心させるように優しく背中をさすってきた。  危なかった。本当に失うところだった。彼がいないと俺はもう生きていけないと分かっているのに。  涙の発作が治まるまで、俺は彼を抱きしめ続けた。いつの間にか彼の意識は眠りの淵へと沈んでおり、無防備な顔で眠りこけている彼に気付いた俺は、その温もりにすら愛しさを覚えた。  とにかく、この場を離れよう。彼女が死んだのは彼女自身の意志で、この家にとっての醜聞ではあるが、俺と彼が罪に問われることはない。  厄介な女が勝手に消えてくれたと思えば、むしろ歓迎すべき出来事だ。当主が今度はどんな手を使ってくるのかというのは気がかりだが、少なくともこの半年よりはマシな状況になってくれるだろう。  だが彼を抱えて屋敷に帰り着いた俺が、早朝に出歩いていた当主と鉢合わせてしまったという偶然は、全ての楽観的な選択肢を粉々に破壊してしまった。

ともだちにシェアしよう!