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②
翌日。昨日と同じように出勤をして、仕事をしていた。あれほどまでのミスをすることもなく、静穏に時間は過ぎていく。残すところ後1時間。終わりが見えて気分も明るくなってきた頃だった。
客もほぼおらず、使われていない奥のテーブルから掃除をしていると、ピンポンと呼び出し音が鳴った。最近はタブレット注文がメインで、呼び出しをされる回数は少ない。珍しいなと感じつつも、呼び出した卓の番号を見て、動きが止まる。それは、昨晩、本来はいない四人目の客を通してしまった席だった。
他の二人のホールメンツは、接客中とトレイ掃除中だ。手が空いているのは、間違いなく俺。ふう、と小さく息を吐き出して心を落ち着かせる。大丈夫、ただ見に行くだけ。そう言い聞かせながら、呼び出しされている卓へと向かった。
角を曲がった先の直線に当たる位置。近づかなくても様子を伺えるその席。そっと頭を出した先には、あの男が座っていた。
(まだいる……!)
ヒュッと喉の奥が鳴った。認識をされたくない。見えていない人たちと同じように過ごしていたい。壊されかけている日常への恐怖心で、ただただその場に立ち尽くして、見つめることしかできない。
相変わらずフラフラと体を揺らしている男の頭が、ゆっくりと動き出す。俯き加減だったそれが右へと振られて、立ち尽くしている俺の方に顔を上げていく。
「おまたせしました~、ってあれぇ、誰もいなくない~?」
顔が見えそうになった時、明るい声で現実へと引き戻された。丁度トイレ掃除が終わったマキノが、反対側から小走りにやってきたのだ。
俺と男との視線を遮るように間を入り、誰も居ない卓の前で首を傾げている。タブレットへと手を伸ばして確認をしている彼女越しで、男が蠢くのが見て取れた。まさか危害を加えようとしているんじゃないか。そう思ってしまえば、反射的に体は動き出す。
「マキノさん」
「あ、シュウぴ。聞いてよ、ココさ~」
「さっき確認したけど、誤作動じゃないかな」
彼女の手からタブレットを奪い取り、充電器へと戻す。さりげなく男とマキノの間へと体を滑り込ませてやれば、彼女は素直にテーブルから離れてくれた。
「マ? てんちょに言っとこっかー」
「そうだね。あと、申し訳ないんだけど手伝って欲しくって」
「いいよん、どこどこ~?」
あっちと指さした方向へ、マキノは何の疑問もなく歩き出す。見えない人でも、触られれば何かしら異変は出る。咳や熱、怪我だったりとマチマチではあるが、性質の悪そうなこの男に絡まれれば、ある程度の強い反応が出るだろう。それが、居場所を作ってくれている彼女に降りかかるのは嫌だった。
小さく息を吐き、俺も後に続こうとして一歩踏み出す。瞬間、グンと右腕を強く引かれる感覚がした。突然のそれに抗うことは出来なくて、そのままソファー席へと倒れ込む。冷たくて、硬い、ソファーとは違った感触。未だ右腕、手首は強く掴まれているのか、動かすことができず。それでも逃れようと左腕をついて起き上がると、座っている男の膝の上へ座らせられているような状態になっていた。
『捕まえた』
耳元に、男の囁き声がした。臭い。腐ったよう臭いが纏わりつく。
なに? なにが起きてる? なんで触れるんだ?!
近くまで寄ってきたことはあった。声をかけられたこともあった。目の前で覗き込まれたことも。
だけど、直に触られたことは、はじめてだ。
恐怖から息が詰まる。
『みえてるデショ?』
囁く声。触れる程近い距離。吐息が耳にかかり、目を閉じる。気持ちが悪い。胃の中の物がせり上がってくる感覚に、歯を食いしばった。はずだった。
カチカチと小刻みな音がして、自分震えていることに気付いた。
『ねえ』
やめろ。
『こっちみて?』
嫌だ。
『おいしそうな、においがするね』
やめてくれ!!
悲鳴をあげようと口を開き、喉が引きつる。腐敗臭が肺へと入り込むような感覚。まるで体の中を撫でられたような気がして、一気に鳥肌が立つ。と、同時に、必死に食い止めていた胃の物が、逆流をした。苦し気な声を上げてぶちまける。ビチャビチャと膝の上へと吐き出してえづき続ければ、慌てたような声と、足音を耳が拾った。苦しい呼吸の中、薄っすらと目を開ける。涙の膜でぼんやりとした視界には、血相を変えたマキノの顔が映り込んだ。
「ちょ、大丈夫?! どした?!」
「ごめ、」
「そんなんいいって! とりあえず吐いちゃいな!」
「う゛……ッ」
温かい手が背中を擦る感覚で、冷えていた体に熱が戻っていく。ひたすらに嘔吐し続ける俺を擦り続けながら、マキノが何か叫んでいるのが聞こえる。ただ戻すだけの行為に集中していれば、いつの間にか同僚も加わり、周囲が慌ただしくなっていた。
その頃には、もう右腕は自由になっていて。俺が乗り上げていたはずの男は、いなくなっていた。
その後、近くのディスカウントストアで買ってきてもらったズボンへと履き替た。フラフラしながらカウンターへと座らされ、続けざまにおしぼりが出てくる。有難く受け取り顔を拭いていたら、店長から早上がりの許可が出された。早上がりと言っても、後15分程度で定時だけど。それでも、その気遣いが嬉しい。大人しく頷き帰ろうとした所で、キッチンに入っていたメンツに止められた。曰く、そんな真っ青な顔で終電なんかに乗るなと。最後の客も居なくなり従業員だけの空間だったこともあり、話題は瞬くうちに店全体へ広がっていく。全員にタクシーで帰れと言われ、誰かがアプリでタクシーを呼んだからなんて言い出す始末。金がかかると渋る俺を動かしたのは、店長から出された五千円だった。
「お先に失礼します」
「おつかれ~」
「気を付けろよー」
口々に挨拶を返されながら店の外へと出る。直ぐ前の道路脇に付けられていたタクシーに乗り込んだ。住所を告げて、走り出す車体。流れていく風景を眺めていれば、自然と瞼が落ちていった。
自分の家へと戻ってきて、鍵とチェーンをかけた。棚の上に貼られているお札をチラ見してから、靴を脱いですぐに風呂へと向かう。トイレと洗面台と風呂が一緒になっている、狭いユニットバス。シャワーの栓を捻ってから、閉じているトイレの蓋の上へ乱雑に服を脱ぎ捨てた。湯気立つ湯舟の中へ滑り込み、両腕を壁へ付くと頭から少し熱めのお湯をかぶる。
目を閉じて、深く息を吐きながら考えるのは、今夜のあの男のこと。触れられ、声をかけられた。捕まえたという言葉の意味は、一体何なのか。考えると共に、冷たい感触と腐敗臭が蘇る。
「うッ」
再び吐き出しそうになり、咄嗟に口を手のひらで覆う。駄目だ。考えるな。忘れた方がいい。振り切るように思考を追い出して、目を開く。飛び込んできたのは、右手首にはっきりと残っている青黒い痣。逃さないと言われているような気がして、それから馬鹿馬鹿しいと頭を振った。
「どうかしてる」
手早くシャワーを済ませてベッドへと座り込む。スマホを充電器に差し込んだついでに画面をつけてみれば、未読通知が溜まっていた。中には、心霊関係で仲良くなったSNSのフォロワーからのリプライもあったが、今は返す元気がない。
髪を乾かさないと思いつつも、体を横たわらせれば一気に疲労感が襲ってくる。煌々と付いている電気の下で眠るようになったのは、いつからだったか。
暗闇が怖いわけではなかった。それに紛れてこちらを見ている何かが怖かった。少しでも安心したくて、もう何年も電気を消したことはない。手の甲を目の上へやり、影を作ってやる。程よい暗さに息を吐き、目を閉じた。意識を手放すのは、そこからさほど時間がかからなかった。
ピンポン。
高い呼び出し音で意識が覚醒したのは、朝方のことだった。まだ朝日が昇る前。しんと静まり返る中、チャイムの音だけが室内に響く。こんな朝早くに来客なんて。妙な胸騒ぎを感じ起き上がれば、それを見越したようにもう一度チャイムの音がした。数秒おいてからもう一度。催促するようなそれに、ゆっくりベッドから立ち上がる。俺しか住んでいない部屋だというのに、足音を殺して廊下へと続くドアを開ける。
同じく明るく照らされている廊下と玄関。その中で、再びチャイムの音がする。変に荒くなる呼吸を無理やり押さえつけ、玄関へと距離を詰める。ピンポン。無意識な音が耳を突く。
静かにドアスコープに顔を寄せ、外を改める。そこには、ほの暗い廊下があった。見慣れた金属製の手すりと床以外は、何もない。
ピンポン。
「ッ?!」
誰も居ない中、押し続けられるチャイムの音で肩が大きく跳ねた。それがトリガーとなってしまったのか、今度はコンコンとノックの音へと切り替わった。
コンコン。コンコン。コン、コン、コンコンコンコンコンコンコンコンコン。
もう、ノックなんかじゃなかった。
狂ったようにドアを叩き続ける音に慄き、床へと座り込む。口元を押さえただ呆然と玄関のドアを見上げることしかできない。頭上の電気が点滅を始める。ジリリと電球の音。築30年のボロアパートの玄関が、いつまで耐えてくれるかもわからない。
あの男だ。浮かんだ霊の姿に、目の前が歪む。
やめろ。もうやめてくれ。
いやだ。
どっかにいけ。
消えろ。
もう、
「うるさい!!!」
腹の底から出た怒鳴り声だった。
その声を切っ掛けに、今まで鳴り響いていたノックの音がピタリとやんだ。
変に静まり返る玄関。安定して明かりを灯す電球。繰り返される荒い呼吸の音。いなくなったのか、判断が出来ずにただじっと玄関を睨み続ける中、部屋の中からドンと大きな音が響いた。
「ひぃ!?」
振り返り、それから隣の住人に壁ドンをされたのだと理解して……詰めていた息を、やっと深く吐き出した。
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