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⑤
紙袋片手に家へと帰る途中、ずっとふわふわとした気分だった。カスミという男は、話していると夢心地にさせるような雰囲気を持っていた。物腰の柔らかさのせいなんだろうか。浮世離れしている、不思議な人だなと思う。
そんなことを考えながら電車に揺られていると、スマホが震えた。カスミからだ。内容は、御札を貼る場所についてだった。寝室の入口に貼ること。お香は気になる場所で構わないこと。
渡したっきりではなく、ここまでのアフターケアまでしてくれるのか。しかも無償で。相手にとってはなんの得もないと思うのに。正直、頭が上がらない。
素直に感謝の言葉を伝えれば、やっぱりあの犬のスタンプが返ってきた。完璧なのに、抜けたところがある。ああいうのはずるい。こうして丁寧にされて、それっぽいことを言われたら、案外簡単に信じてしまいそうで怖かった。新興宗教にハマるのって、今の俺みたいな状況なのかもしれない。
玄関を開けるのには、ほんの少し勇気がいった。今朝方、あんな目に遭ったんだから当然だ。それでも、“ほんの少し”で済んだのはカスミのお陰だと思う。普段だったら絶対に戻りたくない部屋も、深く深呼吸をしてドアを開けられた。
すぐ横の御札は、半分以上が黒ずんでいた。効果はほとんどないのかもしれない。
祠の件があってから、怯えてばかりの俺を見かねてばあちゃんが用意してくれたものだった。家族の中で、ああいう話をまともに聞いてくれたのは、あの人だけだった気がする。思い出の品がこんな風になってしまうのは悲しいけれど、最後まで俺のことを守ってくれたんだと思うと嬉しくもあった。中学校へ上がる前には亡くなってしまったばあちゃん。黒ずんだ札をそっと撫でる。禍々しい見た目になってしまっているけれど、今はまだ、この御札は処分する気にはなれなかった。
部屋の中に入り、カスミの言う通りに御札を設置した。寝室と言われたけど、生憎1Kの部屋に寝室もリビングもない。とりあえず、入ってすぐの壁に貼り付ける。誰かを上げる予定もないため、目に入る位置にした。この方が精神的にも安定する。気がする。
それから、お香のセットを持って洗面台へと移動した。最初に身に迫る異変を感じたのはここだった。だから、置くならここしかない気がした。火がないので、一旦コンロで先端に火を移してから、線香立てへと差し込む。ふわりと香る甘くて優しい花の香り。肺いっぱいに吸い込んでから、深く息を吐く。あの人に守ってもらっているような気がして、なんだか心が落ち着いた。
そのままシャワーを浴びてしまおうと準備を始める。帰ってきたら、外のものを持ち込む前に洗い流す癖がついたのはいつからだろう。この香りに包まれれば、いつか洗い流すことも忘れられるのだろうか。水音を聞きながらそんなことを考え、馬鹿らしいと上着を脱ぎ捨てた。
今日一日で濃すぎる体験をしたせいか、体は鉛のように重かった。早々にベッドへと横たわり、息を吐く。このまま眠ってしまいそうになって、カスミへお礼を言っていないことを思い出した。のろのろとスマホを手に取り、連絡アプリを立ち上げる。柿のアイコンをクリックして、文字を入力した。
【シュウ:ありがとうございます! 早速設置しました。お香、とっても良い香りがします】
【カスミ:まずは無事に帰宅できたようで安心しました。この香が、少しでもシュウくんの心を落ち着かせる物となれば嬉しいです】
すぐに返ってきた返信。あの優し気な声色で再生されていた時、追加のメッセージが届く。
【カスミ:本日お渡しした札ですが、きちんと効能のあるものです。しかし、札という物はいわば一次しのぎの対策と言ってもいい。どんな些細な事でも構いません。いつもと違うと感じた際は、僕に教えてくださいね】
一次しのぎ。その言葉に納得する。それから、この人が俺の命綱になり得そうで怖かった。カスミという祓い屋との縁はなるべく切らさずにおこう。そんな打算的な考えをしていることに気付き、自己嫌悪が湧き上がる。
「自分勝手だな、俺」
呟いてから嘲笑を浮かべていれば、またスマホが震えた。
【カスミ:こうして繋がれたのも縁です。ぜひ、僕とも仲良くしてくれると嬉しいです。】
【カスミ:あ、ご安心ください。シュウくんから料金はいただきませんよ笑】
【カスミ:(照れて顔を隠している犬のスタンプ)】
「変な人」
思わず笑ってしまい、僅かに胸の中が暖かくなる。これがこの人の手口かもしれない。けれど、素直にこの男と人として付き合ってみたいと思ってしまった。
◆
もらった御札は効果てきめんだった。あれだけ入り込んでいたあの男の気配は、その日を境にぴたりとやんだ。部屋に入れずうろつくこともなく、気配自体が消えていた。二週間以上経った現在でも、家やバイト先であの男の影は見掛けない。実際に祓ってもらったわけじゃないから、もしかしたら接触を断念しただけかもしれない。けれど、それだけでも俺にとっては救いだった。
あいつのことを考えるだけで、鳥肌と吐き気が蘇ってくる。それは、一種のトラウマのようなものになっていて、大量の血を見たり、飛び降りって単語を聞くだけでフラッシュバックする。暇つぶしに見ていたアニメの続きすら見られなくなってしまったのには笑うしかない。自分のメンタルの弱さに呆れてしまうが、それぐらい衝撃的な出来事だったんだろう。
だから最近は、専ら地上波を垂れ流している。見る気は起きないけれど、程よい雑音が丁度良かった。ボーっとスマホでショート動画をスクロールし続けていたら、通知を告げるポップが現れた。朧かと思えば、相手はカスミだった。
祓い屋という仕事柄なのか、カスミからの連絡が来る時間はまちまちだ。趣味が一緒でもないから、熱中して話す内容はあまりない。相手からくるのは、御札の書き損じをたくさん出しただとかそんな些細なこと。何でもそつなくこなしそうな見た目なのに、そういう話を聞く度妙な親近感を覚える。だからか、今日は忙しかったとか、面白い客がいたとか、俺からもどうでもいい内容を話せるような間柄へと進化していった。今日は一体何があったのか。横になっていた体を起こして、連絡アプリを立ち上げる。
【カスミ:シュウくん見てください! 今日、現場へ行く途中で猫ちゃんを見かけました!】
【カスミ:(猫っぽい黒い物体が写っているブレブレな写真)】
【シュウ:いや、ブレすぎて分かんないですって笑】
【カスミ:(黒い物体が見切れている、やはりブレている写真)】
【カスミ:こちらは?】
【シュウ:残像?】
【カスミ:僕、写真のセンス無いのかもしれないです。残念です。とても可愛らしかったから、お見せしたかったのですが、、、】
【カスミ:(泣いている犬のスタンプ)】
【シュウ:猫好きなんですか?】
【シュウ:(猫の写真)】
【カスミ:とても可愛らしい……! こちらは、猫、ちゃんですか……?】
【シュウ:鼻潰れててブサイクですけど、猫ですよ笑 昔実家で飼ってた、エキゾチックショートヘアって品種です。知りません?】
【カスミ:大変失礼しました……笑 初めて知りました。お顔がとてもキュートです……】
「マジで知らないんかい!」
画面の前で思いきり突っ込んでしまった。年齢は知らないが、絶対に俺より年上であろう人に言うセリフじゃないんだろうけど。共通の話題がないのに、連絡を取り合えるのはこの人の人間性のお陰なのかもしれない。
いつの間にか距離が縮み、生活の一部へと入り込んできたカスミのせいで、香りを意識するようになったのはつい最近だ。
自宅なら、線香に火を点けてトイレに籠ればいいだけだが、外ではそうもいかない。カスミにもらった線香と同じような物を見つけるのは難しい。なるべくそれに近い物が無いか探してみたけど、ドンピシャなのは一つもなかった。この香りが安心するのだと、もう体が覚えてしまっているらしい。代わりでは満足できない。認めたくはないが、ジャスミン系の爽やかなもので気を紛らわすしかなかった。
(代えの利かないオシャレな物を寄越しやがって)
バイト前。早めに家を出て、駅近くにある二フロアに渡る雑貨店を物色しながらため息を吐く。それから、商品棚に映った自分の姿が目に入った。まぶしい程明るい店内に突っ立っている猫背気味の野暮ったい男。お前がいるような場所ではないぞと言われているようだった。場違いなのは分かっている。なのに、どうしてこうまでして探してしまうのか。自分のことなのに、よく分からなかった。
クタクタで帰宅したアパートの玄関を引いてすぐに異臭に気が付いた。乱暴にドアを開け、慌てて中へと駆け込む。腐臭や血の匂いといったものではない。焦げたような臭いに、現実的な火事の恐怖が湧き上がる。廊下のドアを開け、臭いの強い奥の部屋を見渡した。明るい室内に、炎は見当たらない。念のためにコンセント類をかたっぱしから確認するも、煙すら上がっていない。火元は他だろうか。線香のことを思い出して振り返った時、壁へ視線が釘付けになった。入ってすぐの所に、長方形の黒い汚れがあった。ススのようなものと、その下へ落ちている燃えカスのようなもの。
そこは、カスミからもらった御札を貼っていた所だった。
バタン。
大きな音を立てて、開けっ放しにしていた玄関のドアが閉まる。
ジジジ、と電球の明かりが揺れて、再び点灯した。
玄関には誰も居ない。何も、見えない。
それなのに、異質な何かが部屋の中へと入ってきてしまったような気がした。
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