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②
次に目を開いた時に飛び込んできたのは、見慣れた部屋だった。
煌々と照らされた室内は、つい先程までと変わらない。ゆっくりと起き上がり、背筋と腰の痛さに眉を寄せる。ベッドに腰掛けたまま、上半身だけを倒していたせいだろうか。それとも……
フラッシュバックするのは、男に犯されたあの瞬間。首を絞められて意識が飛んだはずなのに。その光景を思い出して、反射的に立ち上がると洗面所へと向かった。勢いよくドアを開き、鏡に映り込む己を見つめる。青白い顔色をしているが、それ以外おかしなところはない。乱された跡も、首元を噛まれ絞められた痕も、何も、ない。いつも通りの冴えない男の姿。あれは、現実じゃない……? 夢、だったのか。じっと鏡を見つめていても、考えはまとまらない。……カスミに、言うべきだろうか。
手元のスマートウォッチで5時少し前なのを確認し、戸惑う。だが、ここで遠慮をしたら、本当に手遅れになるかもしれない。相手の異様な執着具合を考えれば、今は、過剰なくらいで丁度いいだろう。
「はあ……」
大きくため息をつき、蛇口を捻る。ジャー、と流れる水の音。数秒見つめてから、そっと両手を差し出す。手を器のように丸めて水を貯め、静かに顔を洗う。覆うように顔を抑えた時、ぶわりと全身に悪寒が走った。本能レベルでヤバいと判断出来るソレ。
けれど、疲れきった体がその反射に追いつかなかった。
後頭部へ強い力が襲う。前のめりに倒れ込み、そのまま目の前の洗面台の中へと顔を突っ込んだ。容赦なく陶器へ押し付けられた頭の上から、冷水が降りかかる。栓はしていなかったはずなのに、見る見るうちに水が溜まり始めていた。
(まずいッ!!)
藻掻く俺の様子を嘲笑う声には聞き覚えがあった。
あいつだ。間違いない。
あっという間に顔面全体を水が覆う。呼吸ができず、口を開ける。一気に中へと入り込み、必死に酸素を求めて首を振った。びくともしない。頭を押さえつける力が更に強くなり、ミシリと骨が軋む。
これは夢なんかじゃない……!
現実に迫る死の恐怖。次いで、こいつに良いようにされてたまるかと怒りが湧く。だからこそ、感情に任せ乱暴に腕を振り回した。勢いよく上げた左手が何度目か固い物に当たり、高い音がする。
『ギャッ』
急に力が弱まった。その一瞬で、両腕を付いて全力で上体を起き上がらせた。
なんの抵抗もなく起き上がると、自身の勢いでそのまま後ろへとひっくり返った。思い切り床へ尻もちをつく形で転ぶ。同時に大きく咳き込んだ。クラクラとする意識の中、必死に酸素を吸い込む。
「ゲホッ、ゲホッ!!」
水浸しの床へひたすら吐き出して、ようやく頭が回り始めた。辺りに漂っているのは、あの腐臭。しかし、男の姿は見当たらない。その代わり、砕け散っている線香受けと、灰が散らばっているのを見つけた。腕を振った際に感じた衝撃は、これを払い落としたものだろう。そして、男が消えた理由も、きっとこれにあるんだと思う。
(出よう。もう、この部屋にはいられない)
覚悟を決め、ゆっくりと立ち上がる。
うるさい程に流れ続けている水を止めた。スマホと財布を手に取り玄関を開ける。朝の光の中で、部屋を振り返ることはしなかった。
ビショビショに濡れたままの服で、ラッシュ前の電車へと飛び乗った。見るからに怪しげな俺に、数人が視線をよこしてから逸らす。見ないふりをしているのが、普通のフリをしている自分みたいで……なんだかおかしかった。
行先は特に決めていなかった。だけど、体は自然と助けを求めていたようだ。新宿と告げられる駅名に反応して電車を降りた。それから、ずっと握りしめていたスマホへと視線を落として、そのまま立ち尽くす。連絡をしなきゃと思った。なのに、体が震えて上手くスワイプができない。なんで震えているんだろう。呆然と自分の手を見つめ、ぎゅっと握り込む。
落ち着くまではと諦めて、ため息を吐き顔を上げた。早朝といえど、ここは人が多い。立ち止まっている俺を避けるようにして、多くの人間が通り過ぎていく。確実にここに俺はいる。それなのに、誰もこっちを見ないのが逆に異様だった。
気づけば駅を出ていた。歩き続けてどのぐらいか、ぼんやりと疲れたと感じる。どこかで座って休憩をしたい。下ばかり見ていた顔をあげ、目に付いた看板へと向かう。ふらふらと吸い込まれた先は、ファミレスだった。駅から離れたモーニングの時間、客はほとんどいない。クーラーの冷気にぶるりと身震いをする。歩き続けた体にとっては心地いい室温なはずなのに、今はひどく寒い。腕を擦っていれば、すぐに席へと通された。
差し出された水へと手を伸ばす。コップを掴み上げ、胸のあたりでぴたりと動きが止まる。ただの水なのに、どうしてもそれを口に運ぶことができない。ゆっくりとそれをテーブルへと降ろしてから、卓上のタブレットをタッチした。
温かいものをと、普段は飲まないホットコーヒーを頼む。その間にも、ガタガタと体の震えは大きくなっていく。物が二重に写った。すぐに運ばれてきたコーヒーの上で、温かさを証明するよう白い湯気が揺れていた。飲むこともせず、ぼうっとそれを見つめ続ける。
なんだか、疲れた。寒いはずなのに、頬の奥だけが妙に熱い。ぼんやり霞む視界のせいか、息をするだけでじくじくと体の芯が火照って煩わしかった。
どれぐらい経った頃だろう。湯気が見当たらないから、コーヒーはすっかり冷めていたと思う。
ふと、手のひらでスマホが震えているのに気が付いた。画面に表示されている、柿のアイコンにハッとする。慌てて画面をスワイプさせて応答すれば、すぐに俺の名前を呼ぶ声が漏れ聞こえてきた。それだけで、じわりと、目の前が歪む。
「は、い……」
『シュウくん!! 良かった、やっと繋がりました……!』
「やっと……?」
『いえ、そんなことはどうでもいいですね、今はどちらですか?』
「えっと……ファミレス、です……」
『店舗名は分かりますか?』
「店舗……」
『駅前ですか?』
「じゃないです……」
『何駅から移動しました? どちらの方面へ? 歩いて?』
矢継ぎ早に質問をされ、店の名前と窓の外に何が見えるかをやっとのことで答えられた。カスミでも、焦るようなことがあるんだなあ。関係のないことを考えていれば、相手から「迎えに行きます」と強めな声色で告げられ、一旦通話が終了する。
ホーム画面へと戻ったスマホには、たくさんの不在着信の通知があった。その全てがカスミからで、それが少しだけ嬉しかった。
「シュウくん!」
名前を呼ばれ視線を上げる。そこには、ずっと縋りたかった人の姿があった。入口からこちらへと向かって駆けて来るカスミと視線が絡み、やっと体の緊張が解けた気がした。
これでもかと眉を下げて俺の前まで来たカスミは、足元へとしゃがみ込む。客が少ないと言っても、人がいないわけでない。普通のファミレスでするにはおかしすぎる動き。びっくりしたような視線を集めているけど、それに構うほど今の俺に余裕はなかった。
俺を見て、一瞬底冷えがするような目をしてからすぐに痛まし気な表情を浮かべると、手を握られた。小刻みに震えている手は予想以上に冷たくなっていたようで、温かいカスミの体温に包まれて安心する。上目遣いで顔を覗き込んできた彼へ、無理やり口角を上げて見せる。
「……ありがとう、ございます」
「無理に笑わなくて良いのですよ」
「無理なんかじゃ……」
「どんなにつらく、怖かったでしょう。よく、頑張りましたね」
「カスミさん……」
もう無理だった。
労わるような言葉に、鼻の奥がツンと痛くなる。ボロボロと零れ落ちる涙を困ったように微笑んだカスミに拭われた。手を引かれて立ち上がれば、眩暈に体がふら付く。倒れ込みそうな体を即座にカスミに支えられ、そのまま肩を抱き込まれた。流れるように会計を済ませたカスミに連れられ、外へと出る。交通量の多くなった道路で拾ったタクシーへと押し込まれ、隣へ乗り込んできたカスミが当然のようにぴたりと体を寄せてきた。じんわりと伝わってくる人肌の体温が心地よい。
「着いたら起こします。眠っていていいですよ」
「いえ……」
眠るのは怖い。やんわりと断った俺の様子で察してくれたのか、左手をそっと握り込まれ、指を絡められる。
「僕の家へ向かいますが、構いませんか?」
「はい」
「良かった……」
優しいカスミの声に、やっと自然に笑えた気がした。
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