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🎼Lesson3《マーブル模様》
先日の件はあれで終わりだと安心していた奏は、今の状況に困惑していた。
この三日間、仁はどこにでも現れた。
講義、廊下、食堂。どうやって探しているのか、気づけば隣にいる。
「なあ見て、ここの例文。ファーレ・ロ・ストゥルッツォ……直訳で『ダチョウをする』。はは、ワケ分かんねえ。『不快な状況を見て見ぬふりをする』って意味らしいぜ。ははは! 今のお前のことだな」
「……分かってるなら離れろよ……」
げっそりとした奏が、イタリア語の教本を眺めながら隣に座る仁に弱々しく抗議する。
🎼Lesson3《マーブル模様》
今朝は一コマ目から和声学の講義があった。そして作曲法概論、西洋音楽史。
予定の詰まった一日のすべてに、仁は付きまとっていた。
「何でついてくるんだよ……ペアの話は断っただろ? 悪いけど、粘られても……」
「ノン・チェ・プロブレーマ!」
「問題しかないんだけど!?」
仁は一コマ目を寝て過ごし、二コマ目は教授と白熱した舌戦を繰り広げ、昼休憩を挟んでまた三コマ目で寝息を立てていた。
ちなみに寝息までカラフルで、ふわりと浮かぶ音の粒──まるで金平糖みたいな〝かたち〟だった。
一瞬、ほんの一瞬だけ「可愛い」と思ってしまったことは墓場まで持っていくつもりだ。
そして、ようやく仁が目覚めた四コマ目のイタリア語。古いカフェで流れる外国語の歌のような喋り方の教授は、気品のある老婦人といった風体だ。長くフィレンツェに住んでいたらしい。
彼女が褒めてくれる「Bravo」という音の〝かたち〟が、デイジーのようで可愛らしくて奏は好きだった。
けれど、さすがは単身でイタリアに乗り込んだ女性なだけある。
「Signor早坂、お喋りがとっても上手。ぜひ皆さんにも聞かせてくださらない? うふふ……五十八ページ目から読んでちょうだい」
彼女は柔和な笑みを仁に向けた。講義中に喋るな、ということだろう。ざまあみろと奏は横目で仁を見やり、べ、と舌を出す。
仁は一瞬キョトンとしたあと、挑発的な視線を奏に返して息を吸った。
その瞬間、周囲が静まり返る。
誰もが、一瞬だけ息を止めていた。
──流水。雪解け水が小川の石を丸く研ぎ、春を迎えた草花を潤し、柔らかな光を吸い込んで大海へと流れ着くような──そんな、澄んで深みのある〝かたち〟が奏の全身を包んだ。
ぞわぞわぞわ、と背筋を甘やかな電流が駆け上がる。呼吸をしてしまえば、その〝かたち〟が失われてしまうのではないかとさえ思い、奏は息を潜めて右耳からじわりと侵食するように流れ込んでくる声を聞いていた。
それは教授が「Bravo」と止めるまで続き、そこではじめて奏は自分の鼓動が暴れていることに気付いた。
奏はぎゅ、と拳を握りながら「どうだった?」と言わんばかりに覗き込んでくる得意げな仁から顔を背けた。
「お前……頼むからもう俺に構うなよ」
「なんで?」
「…………こわい」
無理矢理にこじ開けてくる仁の強引さと、染み入るように流れ込んでくる繊細さのアンバランス。奏の心に土足で踏み入ってくるくせに一歩手前で立ち止まってこちらを観察しているような。
「こわい」と一言漏らした奏を黙って見つめる仁。何を考えているのだろうか。仁も何か〝視え〟ているのだろうか。
奏は居た堪れない思いをペンを握っては緩め、離しては掴むことで誤魔化そうとする。そんな奏に、仁は普段の軽薄さからは考えも及ばないほど静かな声で返した。
「でも、お前の〝色〟はそんな風に言ってない。……や、怖いってのは嘘じゃないんだろうけど──綺麗だ。相変わらず。キラキラしてて、けど不安そうで……淡いマーブル模様になってる」
「……キラキラ……」
「そう……綺麗だ」
仁が奏を見る時の〝色〟は、いつも凛として澄んでいた。
けれど今の奏は、歓喜のイエロー、期待のピンク、困惑のグリーン、不安のブルー──水に滲んで溶け合ったような〝色〟だ。
講義室には教授の声と紙をめくる音だけが流れる。口を開いてしまえば奏の〝色〟が変化してしまうと本能的に感じた仁は、いつもの軽口を封じ、ただただ奏の〝マーブル模様〟の移り変わりを眺めていた。
やはり仁はただの共感覚ではなく一種の〝能力〟を保有しているのだろう、と奏は納得した。ただ、それが何であれ奏には関係ない──と、思いたかった。変なやつに絡まれたな、と友人たちと笑い合って終わりたかった。
なのに。あんまりにも仁の瞳が熱を帯びていたから。風に吹かれても、平然と静かに燃え続ける青い炎のような〝かたち〟を瞳に宿していたから。
それは、今までのように軽やかに弾むネオンの〝かたち〟でも、ふざけたようなカラフルな星の爆発でもなかった。
「一回だけ。頼むよ……チャンスが欲しい」
奏には戸惑いながらも頷くことしか出来なかった。
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