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🎼Lesson4《重なる音》

🎼Lesson4《重なる音》  早坂仁の半生は順風満帆だった。  世界的に名の知れた音楽家である両親。音楽の才能に溢れた姉と兄。末っ子の仁は、愛され、与えられ、期待されて育った。  恵まれた容姿、恵まれた環境、恵まれた人間関係。同世代に遅れを取ることなど、一度もなかった。けれど、それは仁にとってはおもちゃのおまけ程度の他愛もないことだ。  仁の人生という音楽が「転調」したのは十二歳の頃だ。  音を〝色〟として視認する能力が発現して暫く、生活の音すべてが文字通り色鮮やかに見え始めたことに慣れた頃だった。 「衝撃──っていうのかな。それこそドアの開け閉めの音だって何かしらの〝色〟が見えてたのにさ、……両親のピアノは〝透明〟だった」  仁の執拗なアプローチに「まずはお前のピアノを弾かせろ。話はそれからだ」と根負けした奏とともに、大学構内の練習棟へ籠って早数時間。奏は調律する仁の背中を眺めていた。  ぽー……ん、と一音一音、仁が鍵盤に指を乗せて音を仕上げていく度に静かな湖面に雫が一滴落ちて波紋を広げていく。ほんの一滴、静謐で、底知れない深さを孕んだ〝かたち〟──それを〝視〟ながら、奏は首を傾げた。 「〝透明〟? それって〝色〟が着いてないってこと?」 「いや……極限まで高められた〝完璧な色〟だったんだ」  すべての音に〝色〟が着いて視える状態は、さぞかし賑やかな視界だろうと、その休まることのない日常を身をもって知っている奏は、少しばかり同情的な目を向ける。 「俺はあれを再現したい。〝完璧な透明〟を。……そしてお前とならそれが作れると思った、秋森奏」 「何で俺……」 「──よし、できた。お待たせ。俺の音に惚れんなよー?」 「……ばか」  軽薄に撓む目元や口元が引き締められ、熱を帯びてピアノに真っ直ぐ向けられている仁の横顔を「こいつ、こんな顔も出来るんだ……」と見惚れていた奏に、仁がいつもの調子を取り戻す。感心した俺が馬鹿だった、と奏は呆れて溜息をついた。  けれど、約束した以上は弾かざるを得ない。仁が調律したピアノの前に座り、さて何を弾こうかと記憶の奥に積まれた楽譜たちをめくる。と、その時。 「あれがいい。……アラベスク、第一番」 「ドビュッシー?」  別にいいけど、と奏の指が鍵盤に乗る。空調の効いた練習室は、茹だるような初夏の暑さを緩和してくれる。  そういえば、去年の試験で弾いたのもアラベスクだったな……と不意に過ぎる記憶を端に押しやって頭の中の楽譜を真ん中へ据える。 「それじゃ……弾くよ?」  一呼吸、集中力を高めるかのように肺いっぱいにピアノの周りの空気を含む。  白鍵と黒鍵に指が乗り、奏の背筋が伸びて僅かに前傾となり──そして。  (あ……オーガンザのベールだ……)  決して広くはない練習室に満ち満ちていく音の羅列とともに、奏の頬を風が撫でるような幻視が現れる。夏の風に揺れるオーガンザの、柔らかな音のベール。奏が夢中になって追った一年前のあの時と同じ〝音〟。  ひゅ、と喉が鳴った。  全身が熱を帯びる。  どうしてこいつが調律したピアノから「彼」と同じ音が鳴るんだ──奏はそれでも指を止めることが出来なかった。ハンマーが弦を叩きほろほろとほどけていく音を、ただただ追い続けた。 「なんで、この音が……」 「おなじだ」 「えっ?」  ようやく鍵盤から指が離れたのは、まるまる一曲弾き終えた後だった。呼吸が早まり鼓動が忙しなく弾ける奏は、戸惑いの目を仁へと向ける。  仁の双眸がまっすぐに奏を射抜いていた。あの〝かたち〟だ──繊細に瞬く、隠された小さな宝石。  仁は興奮を抑えながらも頬を紅潮させ、跳ねるように立ち上がった。 「去年と同じだ……〝限りなく透明に近い澄んだ青〟……! やっぱり俺が見た〝色〟は間違いなかった!」 「な、なに言っ……」 「秋森奏、俺の音はお前の音で完成する! 俺はお前が欲しい! お前の〝音〟が欲しい……!」  奏は言葉を失った。  何を言われているのか分からない。  ただ、胸だけが苦しいほど熱かった。  奏がオーガンザの音を紡いでいく間、仁の視界は青一色に染まっていた。深海から見上げたような揺蕩う澄んだ青。掴めそうで掴めない、やっとの思いで握り締めたとしても指の隙間から逃げていきそうな──。  いま、仁はやっと、その尻尾を捕まえたのだ──奏という〝色〟を。 「……一年前、お前が弾いたピアノを調律したのは俺だよ」  面食らって困惑している奏に、仁は自分を落ち着かせようとひとつ呼吸をおいて再び椅子に腰を下ろした。  奏は、「やっぱり」と小さく頷いた。仁が調律したピアノに触れた瞬間に戸惑いながらも確信していたのだ。 「あの頃の俺は……理想の〝色〟にどうしても辿り着けなくて自棄になってたんだ」  両親の音を目指して十年近く、仁の〝理想の音〟を叶えてくれるピアニストは現れなかった。どんなに才能に溢れた人でも、どんなに類い稀なる技術を持った人でも、必ずどこかに〝濁り〟があって、気付けば落胆は習慣になっていった。  そんな時、教授にピアノ科の演奏試験用ピアノの調律を頼まれた。両親の古い友人の彼は、幼い頃から可愛がっていた仁が〝理想の色〟を探し続け、そして失望し続けている様子に心を痛めていた。「気分転換に」と場を設けてくれたのだ。 「そこでお前を見つけたってわけ」 「でも何で俺なの……? 俺より上手い人なんていくらでも居るだろう?」 「俺だって分かんねえよ。本能でお前だって思ったんだ。お前の音を聞いたとき……お前の〝色〟を見たとき……何て言うのかな、欠けてたピースを見つけた気がした。こいつが俺の運命だって思った」 「…………いやキザすぎない?」 「ああ……この顔がなけりゃ許されない発言だよな……」  神妙な面持ちで互いに見つめ合う。  能力者であるという共通点が、正反対の二人の世界を少しずつ同じ「調」に変えていく。  防音である練習室の外で微かに現実の音が聞こえる中、柔らかに張り詰める緊張の糸を仁と奏の吹き出す声が崩した。 「ふっ……あははははははっ! 普通自分で言う!?」 「ははははははは!」  奏が神経質そうな柳眉を八の字に垂れさせ声をあげると、つられるように仁も肩を揺らして笑う。  奏には、仁の言う〝完璧な透明〟は分からなかったが、それでも彼の〝音〟に浸りたいと心が求めていた。  仁の方も、今までの誰よりも奏の〝色〟に揺るぎない確信を抱いていた。 「んで? パートナーとして俺は合格?」 「はーあ……まったく。課題のペア、ね」  こうして、ふたりの音が重なり始めたのだった。

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