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🎼Lesson5《ラムネ色の胸騒ぎ》

「遅くなっちゃった……! あの教授、話が長いんだよ……っもう来てるかな……」  互いに作りたい音を擦り合わせるには、時間を重ねて相手を知ることが必要だと仁は言っていた。  ここ数日、空き時間があれば自然と練習棟へ足が向く。一番奥まった防音室で、仁と音作りを重ねる日々。  ああでもない、こうでもないと時に言い合いながら構築していくふたりの世界は、奏が思っていたよりずっと心地良かった。 🎼Lesson5《ラムネ色の胸騒ぎ》  息を弾ませながら緑の木陰を潜り抜け、白い建物へと入る。  二階建ての建物には防音室が並び、木管楽器、金管楽器、弦楽器、そしてピアノの音色が扉の隙間から押し出されるように漏れていた。  必ずしも良い〝かたち〟ばかりではない。けれどそれが、太い幹から枝分かれして伸びる音の枝のようで、奏はそのざわめきが嫌いではなかった。  その枝のひとつ。練習室の小窓越しに、仁の姿が見える。  手元の楽譜を見ているのだろうか。伏目がちな横顔に、思わずドアノブにかけた奏の手が止まった。  気怠げで飄々とした眼差しが、今はひたむきに研ぎ澄まされている。薄い唇が、微かに動いた。歌っているのか、それとも思考が声に漏れているのか。  時々、視線を宙に投げ出し、悩むように眉を歪めてから再び瞳の軌道が落ちる。  そして──ふ、と空気が和らぐ。  仁の唇が、ほんの少しだけ笑みの形にほころんだ。  気付けば奏は胸の辺りのシャツをぎゅう、と握り込んでいた。仁は防音された練習室の中に居るのに。なのに、音が〝視える〟ようだった。 (何だこれ……喉が詰まって息が苦しい……)  胸の奥でラムネがぱちぱちと弾けるみたいな、知らない感覚。  奏はそれを振り払うように深く息を吸い、扉を開けた。 「……お疲れ、早いね」 「お疲れさん。デートは五分前行動が基本だろ?」 「ほんっと……黙ってればなぁ……」 「ふは、黙ってればイケメンだって?」 「……ばぁか」  くしゃり、と崩れる仁の笑顔に、奏の頬が熱を帯びる。きっと走ってきたせいだろう。だって、その証拠に汗ばんでるし心臓の音もいつもよりずっと大きい。  見つめ返したら胸の中で弾けている何かがばれてしまいそうで、奏は無意識に目をそらしてピアノの前に腰を下ろした。 「それで? 今日の調律はどんな感じ?」 「ああ……えっと、ちょっと整音してみた。もう少し透明度出したくて」 「ふーん……弾いてもいい?」  妙にぎこちない奏に、仁は訝しげに目を細めながらも端的に説明する。けれど、奏は説明よりも実際に触って確かめてみたいのか、早速鍵盤の上に指を置いていた。  メジャースケール、続いてアルペジオを響かせる。確かに、鍵盤を押さえ込むとハンマーが弦を叩く音が違う。つるつると滑ってこぼれる音が、いつもより冷たくて硬い。 「……なんか違う。氷みたいな〝かたち〟だ」 「そうだな……どっちかって言うと、ふわふわのかき氷の方がいいよな。待って、変える」  互いに何かが〝視えて〟いた。けれど、それはふたりが思い描いていたものとは違う。  間の抜けた言葉とは裏腹に、仁は真剣な眼差しで身を乗り出す──ふわり、鼻先にシトラス。ほのかに甘く、けれど少しだけ鋭さもあって、奏の胸の内をそっとかき回す。  奏の心臓はなかなか落ち着きを取り戻してはくれなかった。  奏が音を響かせ、仁が音質を変える。  仁が触感をいじって、奏が確かめる。  その繰り返しだけで数時間が経っていた。時計を見れば、いつの間にか昼を過ぎている。  晃と瑛二がカフェテリアで待っている。  分かっているのに、名残惜しい。  もう少しここに居たい。仁とふたりだけで音に包まれていたいような、そんな不思議な感覚。  仁も時間に気付いたのか調律の器具をしまい始めた。  奏はゆっくり、ゆっくり、できるだけゆっくり、片付けていく。奏が楽譜を閉じるたび、胸の内に夏の終わりの夕空のような〝かたち〟が滲んだ。  そんな中、沈黙を切ったのは仁だった。 「……明日さ、ひま?」 「明日……土曜? まぁ……うん」  不思議そうに頷く奏に、仁はいつもの不敵な笑みを向ける。  けれど、その唇の端は少しばかり固かった。 「デート、しよっか」 「…………ッ!? で、っ……デート?」 「うん。待ち合わせてさ、デートしよ。なんと今なら仁くんのエスコート付きですよ」  戯けるように付け足される仁の言葉にも反応できず、奏は迷子の子供のように押し黙った。  今度は仁が狼狽する番だった。  出来るだけ軽く、冗談めかして誘ったつもりだった。奏がいつもみたいに呆れた顔で「ばか」って言って笑ってくれることを期待していたのに。  なのに、奏は言葉を呑み込んで沈黙した。  その沈黙が、仁を余計に不安にさせる。  彼が答えを出す前に、自分が答えなければならない気がして、仁は次第に焦りを感じ始めた。  嫌だったのか。早計だったか。学外では会いたくない?いっそのこと「なんてな」と冗談にしてしまおうか──自分の卑怯な部分が頭を擡げる。  澄ました顔の仁の脳内は、言葉の大洪水だ。 「あー……ごめん、気分じゃないなら──」  「ち、ちがう! 違う、そうじゃない! ……ッ……そうじゃ、なくて……!」  奏の心もまた、大荒れだった。  いつもの揶揄だろうか──ちらり、と仁を上目に見つめる。けれど、「よく分からない」というのが結論だった。  普段と同じように笑っている気もするし、少し、ほんの少しだけ、瞳が強張っている気もする。目に頼れないなら「音」に頼ろうと〝かたち〟を探ってみても、奏の鼓動の音の〝かたち〟ばかりが溢れて邪魔をする。  奏の小さな唇が震えながら開く。けれど音にはならず、すぐに閉じた。 (デート……ふたりきりで? そんなの……絶対楽しいじゃん)  想像しただけで胸の内にぽわんとたんぽぽが咲くようだった。  ふたりでどこに行こうか?お気に入りの喫茶店、水族館、動物園──想像ばかりが逸る心の風船が、突然ぱちんと弾ける。  外の世界、そして群衆。流れ弾のように悪意の〝かたち〟を突き立てられることに堪えられるのだろうか?華やかな仁の隣で気後れせずに居られるのか?仁に「つまらない」と思わせてしまったら──?  奏の心はジェットコースターだった。天までのぼった次の瞬間、地中深くへ突き落とされる。胃の中を氷の塊が滑り落ちるような不安。奏の白いかんばせが、今では可哀想なほどに蒼白だった。  そうして、たっぷり思い悩んでから奏はか細い声で呟いた。 「……デート、初めてなんだ。誰ともしたことない、けど……いいの……?」  防音室の静けさの中で、その声は驚くほど鮮明に仁へ届いた。 「…………初めて?」 「うん……」 「俺が、初めて?」 「っ、だから! そうだって……言ってる、だろ……」 「俺が初めて……マジかよ……くそ、ッあー……くそ、締まんねえ……!」 「だ、だめ……だった……?」  辿々しく紡がれた予想だにしない言葉に、仁の肩から力が抜ける。  拒絶ではなかった。  その事実に、仁の心臓はゴム風船のように膨らんでいく感覚だった。「いいに決まっている!」と喉を迫り上がってくる叫びをグッと呑み込む仁の瞳は、自分でも気付かないほどの安堵を帯びている。 「……ばーか。ダメなわけないだろ? 誘ってんのは俺の方だぞ?」  必死に笑みを貼り付けて戯けて言った言葉も、情けないかな、震えていた。  実際に力が抜けて椅子に座り込んでしまったのだから、格好悪いことこの上ない。  ふたりしか居ない部屋の中で奏がそれに気付かない訳もなく、くるんと上向く睫毛を揺らして瞬かせたあと、ふにゃりと相好を崩した。 「ふふ……ほんと、ばか」  その表情に、仁は今度こそ心の底から愁眉を開く。格好の付かない自分に、ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱しながら笑った。 「はーあ……なーんでお前を前にしたらこんなカッコ悪くなるんだろうな?」 「え? 格好いいと思ってたの?」 「ひでえ! ……はははははは!」  ひとしきり笑い合ったあと、スマートフォンのアラームがけたたましくふたりを現実の世界に引き戻した。ついに練習室のレンタル時間を迎えたのだ。荷物を引っ掴んで、ふたりは慌てて部屋を飛び出した。  重い防音扉を開けた先は〝色〟と〝かたち〟で溢れていて、ふたりの世界をいつも通り騒がしく彩る。  けれど、今のふたりは喧騒が広がる視界を憂えることなく、肩を並べて夏空の下を軽やかな足取りでカフェテリアへと向かった。

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