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🎼Lesson7《暗雲と雷鳴と約束と》
その日の空は、灰色の帷が下りて陰鬱な色が世界を覆っていた。
🎼Lesson7《暗雲と雷鳴と約束と》
「わ……降りそう。傘持って行った方がいいかな……」
まだ朝だというのに、どんよりと黒く分厚い雲が天からしな垂れている。一雨くれば、とも思うけれど、異常に暑い今夏では逆に蒸し蒸しと不快指数が上がるだけだろう。
初めてのデートで心なしか浮かれている奏の心とは真反対の天気に、カーテンの隙間から外を覗いていた彼の眉尻が下がった。
実は、今朝は五時から起きている。
いや、五時に目が覚めてしまったと言った方が正しい。
目覚めた瞬間から、奏の胸の奥はふわふわと甘く揺れていた。心臓の音が、まるで触れたら溶けそうな綿飴のような〝かたち〟だった。
顔を洗って、時計を見る。
服を着替えて、時計を見る。
食パンにプラムジャムとバターを塗って、時計を見る。
齧り付いてカフェオレで流し込んで──やっぱり時計を見る。
何度確認しても一分は一分だ。それでも奏は一秒重ねるごとに、そわそわと落ち着かない気分が増していくようで、遂に約束の一時間も前に玄関の鍵を開けてしまっていた。
「べ、別に早く行く分にはいいよな……遅れるよりずっといいし」
誰に言い訳をしているのか、自分を納得させて靴を履こうと身を屈めた、その瞬間。
空気が一瞬、ひやりと纏わり付いた。
サン=サーンスの《死の舞踏》が、奏の心の中の綿飴を押し流すように現れる。
スマートフォンの呼び出し音と共に。
「……母、さん……」
液晶に映し出されたのは、「母」という名称だった。名前でも「母さん」でもない。無機質な、たった一文字。けれど、奏を竦ませるに充分な一文字だった。
スマートフォンを握る手が氷のようだ。奏は深く息を吸い込んで通話ボタンをタップする。
「も、もしもし……母さん? 今はちょっと手が離せな──」
どうにか喉から押し出した声も震えている。母は、こちらの事情などお構いなしに、針のような声の〝かたち〟で捲し立てるように喋り出す。いつもそうだった。
うん、うん、と相槌を打つしか出来ない奏を余所に、母親の話は次から次へと移り変わっていく。小鳥のように温かく柔らかかった心音が、冷たく速まっていく感覚に奏はぎゅう、と強く目を閉じた。
『奏! 奏、聞いてるの? 本当にあなたって子は……相変わらず呑気に暮らしてるんでしょう。今期の試験も一番を取れるんでしょうね? 主席以外は認めないわよ。まったく……誰のおかげで大学に通えてると思ってるんだか……奏、返事くらいしなさい!』
電話の向こうで、母が怒鳴る。
その〝針〟が、無数に奏の身体を突き刺す。
そうして我慢しているうちに、奏の耳は足元でべちゃ、と鳴る粘着質な不快な音を拾った。
ハッとして目を開けると、ヘドロのようなどろどろとしたものが床から湧き上がって、奏の足に絡み付いて登って──いや、違う。これは、幻視だ。現実じゃない。視界の端では、玄関の靴箱が何事もない顔でそこにある。
けれど、奏は必死だった。母の声が作り出した濁った液体から逃げるように後退りする。
「ち、ちがう……これは違う、違う、違う違う違う! 大丈夫、落ち着け……っ」
壁に押し付けた背中が汗でひんやりと冷たい。いくら自分自身を励まし律しようとしても、汚泥は嘲笑うかのように奏の身体を這い上がってきた。
「はっ……はァッ……う、ぐ……息、が……っ」
幻視に殺されることなど、あるのだろうか……と、頭の片隅に立つ、どこか冷静な自分が思案する。
ついに、とぷん、とヘドロが奏の頭の先まで覆った。
感情の泥濘に、息も継げず沈んでいくようだった。
分厚い〝邪念〟の外では、まだ繋がっているスマートフォンから母の金切り声が膜を隔てたように鈍く聞こえている。
このままどこか遠い世界に行けるのだろうか。母の居ない……悪意を〝かたち〟にする人たちが居ない世界へ。
それもいいか、と酸素が不足していく中、チカッとヘドロの奥が瞬く。その光は、気のせいでは片付けられないほど眩かった。だんだんと輝きは大きさを増し奏へと迫ってきて、そして──光は、姿を現した。
時は少し遡る。
「はは……デートは五分前が基本、だぁ? 何時間前だと思ってんだよ、俺……ダサすぎる……」
奏と同じく、落ち着かない様子の男がここにも一人。
念入りに髪のセットをして服を吟味し、コーヒーを二杯飲んでもまだ有り余る時間に、仁は居ても立っても居られず早々に家を出た。
まだ何とか持ち堪えている空も、昼過ぎには泣き出すだろう。
待ち合わせを大学の正門の前にしたのは、仁だった。本当は迎えに行っても良かったのだが、遠くから奏が歩いてくる姿を見たかったのだ。暑そうに顔を顰め出来るだけ木陰を選んで歩いてくる奏が、自分を見つけた途端に目を輝かせる。そして思わずはにかむように笑ったあと、ハッと我に返って気まずそうに駆け寄ってくるのだ。
想像しただけで、口元の筋肉が機能しなくなる。
「はー……絶対可愛いじゃん……やべ、にやける……」
大学に入っていく学生の目から逃げるように、緩む唇を軽く噛んでしゃがみ込む。照り付けるような暑さはなくとも、張り付くような湿気が不快な筈なのに、仁の心は相変わらず弾んだままだった。
けれど、そんな期待に膨れ上がった胸は約束の時間が迫り、そして過ぎていくと急速に萎み始める。すっぽかされたのか、はたまた事故にでも遭ったのか……奏の生真面目さを考えれば、後者が圧倒的に可能性を孕んでいる。
連絡先を交換しておいて良かったとメッセージアプリを立ち上げ、何度か言葉を向けるものの、一向に返事がない。それどころか既読すら付かないのだ。
いよいよ不安と心配で落ち着かない仁は、急かされるように走り出した。
すっぽかされたのなら、それはそれでいい。あの柔らかそうな頬を両側から引っ張って餅みたいに伸ばしてやる、と冗談で自分を鼓舞しながら地図アプリに促されるまま奏の家へと向かった。
空は雷鳴を呼び、真っ黒に染まっていく。
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