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🎼Lesson8《光の正体とキス》

🎼Lesson8《光の正体と応急処置(キス)》 (ここ、か……?)  ほどなくして、仁は三階建てのアパートに辿り着いた。「音出し」という条件が必要不可欠なため、大学周辺にはこういった防音仕様のアパートやマンションが多いのだ。  エントランスでインターホンを押す。が、当然、即座に出るようなら待ち合わせに来ないわけがない。 「……ま、そうだよな。これで普通に出られたら流石にショックだわ……さて、どうすっかな……」  ゴールはもう目の前だというのに、あと一歩が届きそうにない。シャツの裾で汗を拭いながら三階を見上げる。明かりもない。カーテンも閉まっているようだ。  そんなエントランス前で途方に暮れていた仁を救ってくれたのは、顔見知り程度の大学の後輩だった。言葉巧みに、多少は脅しもかけつつエントランスを開けさせる。  いつもと違う必死さに押し切られ、「変なことしないでくださいよぉ!」と後輩が後ろで泣き言を漏らしていた。親指と人差し指で輪っかを作り、おざなりに了承して見せるが今はそれどころではないのだ。一段飛ばしで階段を駆け上がり、そして遂に──。 「はぁっ……はあっ……はぁ……ふー……頼む……頼むから、出てくれ……っ」  息切れを整える余裕もなくインターホンを押す。   一回、二回、三回──出ない。  仁の胸中に渦巻く不安は、最高潮にまで引き絞られている。救急車を呼ぶべきか、警察を呼ぶべきか。兎にも角にも、まずはこの扉の向こうを確認しなければ。  仁は一縷の望みをかけてドアノブに手を掛けた。 「あ……? 何で開いてんだよ……流石に不用心すぎんだろ……う、わ……っ!?」  仁を拒むと思った扉は、むしろ招き入れるように抵抗なく開いた。  ホッとしたのも束の間、僅かな隙間から漏れ出るものは、おどろおどろしいほどの〝黒〟一色だった。  光を吸い込むほどの漆黒。  部屋の中が見えないほどの不気味な〝色〟。  仁は本能的に、半歩下がり掛ける。けれど、その奥から微かに聞こえる声を捉えた瞬間、考えるよりも先に大きな一歩を踏み出していた。  仁を突き動かしたもの──それは、今にも闇に呑まれそうな奏の助けを求める声だった。 「っ! 大丈夫か!? 何があったんだよ……おい! しっかりしろ!」  青褪めた顔で玄関に倒れ込む奏の傍には、女性の喚く声が漏れ聞こえるスマートフォンがあった。仁の目に映る〝黒〟はそこから溢れ出している。  小さな舌打ちと共に迷わず通話を終えるボタンをタップしたあと、仁は奏の傍らへとしゃがみ込んで懐へ抱き起こした。  息はある。けれど、強制的に繰り返されているような浅く速い呼吸だ。苦しそうに歪む奏の青白い顔に、迷う暇はなかった。奏の細い肩を抱く腕の力が自然と強まる。もう一方の手で汗ばむ冷たい頬を撫でてから、親指の腹でふっくらとした唇をなぞった。 「……っ……応急処置だからな……怒るなよ」  ほんの一瞬の戸惑い。  そして──唇が、触れる。  一度目──苦しいのだろう。嫌がって顔を背ける奏の顎をやんわりと掴んで此方を向かせ、正常な呼吸に戻るよう、祈りを込めて深く唇を重ねる。  二度目── 酸素と二酸化炭素の割合が正されてきているのか、上下する胸が穏やかになってきた。  そして三度目── 小さく吐息を漏らす奏をあやすように背中を撫でてやる。 「ン……大丈夫……大丈夫だからな、ゆっくり息しろ。俺がついてる……」  何度も触れては離れ、重なっては解ける口付け。 「戻ってこい、こっちだ──奏」  そうして初めて名前を呼んだ瞬間、奏の瞳がうっすらと光を宿した。 「っ! 奏……っ! 奏、奏……ああ……っ! 良かっ……良かった……!」  今にも泣き出しそうな仁の顔を不思議そうにぼんやりと見上げた奏は、唇の端を僅かに持ち上げて微かな笑みを零す。  そうして疲労感に誘われるまま、夢へと落ちていった。 ◇  最初の〝かたち〟は、母だった。  奏にピアノを教え、奏の才能を褒め称え、守り慈しんでくれた優しい母。彼女の声の〝かたち〟は焼きたてのシフォンケーキのようだった。ふかふかのまあるい〝かたち〟。それが萎んで〝棘〟に変わったのは、いつからだろう。  父が若いピアニストと浮気をした時?  奏がピアノよりサッカーをしたがった時?  それとも奏がコンクールで優勝を逃した時?  母は言った。「一番じゃなかったら、価値なんてないのよ」と。それは奏に対してなのか、父に選ばれなかった自分に対してなのか……幼い奏には分からなかったが、大好きな母の信頼と愛を失ってしまう恐怖は、世界が終わることと等しかった。  母の声は次第に明確な〝針〟へと変わり、母の言葉は奏を平手打ちする〝かたち〟へと変わった。  幼い頃、ピアノコンクールで二位だったとき、「お母さんがどれほど恥ずかしかったか分かる?」と会場で冷ややかに賞状を破られた。  サッカー部に入りたいと言ったとき、母は一晩中、泣き喚いた。  奏の「世界」は母で出来ていて、「世界」が奏を否定するのならそれは奏が間違っているのだと──幼い奏は自分を守る術を持たず、気まぐれに奏を甘やかしては気まぐれに奏を突き刺す母の姿を見失わないよう必死だった。  母の呪縛は今でも続き、遠く離れた大学へ進んでもそれは変わらない。けれど、雁字搦めになった鎖が、ほんの一部分だけ割れる音が聞こえたのだ。  強烈なネオンの光の〝かたち〟と共に。  ──気が付くと、重たく沈んだ眠りの底から浮上するような感覚に包まれていた。

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