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🎼Lesson9《ふたりのジムノペディ》

「ぅ……?」  ──なんだか懐かしい夢を見ていた気がする。 🎼Lesson9《ふたりのジムノペディ》  がんがんと響く頭に眉を顰めながら、奏は視線だけを左右に動かした。薄暗いのは天気のせいだろうか。あちこち軋む体に鞭打って起き上がる。そこでようやくここが自分の部屋のベッドの上だと気付いた。  ぼんやりと甦る電話越しの母の声に、一瞬喉が狭まる感覚を得る。が、すぐにシトラスの匂いと柔らかな唇の感触の記憶に塗り替えられた。 「あ……っ! そうだ、あいつが……っ」  夢や幻でなければ確かに仁が居たはずだ、と意識をもう少し広げてみる。  時計の秒針、蝉の声、遠くの雷鳴。  そして、うっすらと聞こえてくる──。 「エリック・サティ……?」  降り始めた雨のように一つずつ、ぽつりぽつりと鳴らされる何処か寂しげな旋律。  ゆっくりと床に足を下ろし、誘われるままグランドピアノを置いている防音室へと向かう。  薄く水色に沈んだ部屋。電気も付けず、ピアノの前に腰を下ろした仁の背中があった。 「ジムノペディ?」 「っ! 起、きたのか……良かった……」  静けさの中を揺蕩うような音色。  切なさと憂いを含んだ四分の三拍子。  仁の手が止まるとその儚く優しい旋律も止まる。 「意外と上手。調律だけじゃないんだ?」 「まあ……な、弾けないと調律も出来ないだろ? この〝力〟がない頃は寧ろ演奏の方が好きだったよ」 「ふふ……変なの。ラフマニノフとかリストとか弾いてそうなのに」  ぺた、ぺた、と裸足の足裏がフローリングの床を踏む。  仁と椅子を分け合うように彼の隣に腰を下ろした奏は、まだ本調子ではない声で戯けて応える。そして鍵盤に指を乗せて続きを弾き始めた。  奏の指によって美しく形を変える音色は、やはり〝完璧な透明〟ではないが、透き通った〝青〟が揺れていた。仁の理想には、あと一歩足りない。けれど、仁は奏の横顔から目を離せなかった。 「……もう、平気なのか」  今度は、仁の声が奏の指を止めた。  目を伏せる奏がしばらくの沈黙の後、ぽつりと呟いた。 「ごめん。すっぽかすつもりはなかったんだ。ただ……母親から……電話があって。苦手なんだ、あの〝かたち〟──怖くて」  どう言い繕っても約束を破った事実は残るし、どう言い連ねても母親からの電話が理由だなんて呆れられても仕方ないと奏が膝の上に手を下ろした。  けれど仁は怒るわけでもなく、ただ、その細い手をおずおずと遠慮がちに握った。そして一言、「うん」とだけ答える。  その一言があまりにも優しい響きを持って奏の鼓膜を震わせるので、奏は思わず鼻の奥がツンと染みた。 「怖い音は……歪む。や、俺の音が歪んでんのかも……っ……もう何も分かんないや」  仁になら、自分の心の柔らかい部分を見せても笑わないでいてくれる気がする──奏はずっと心に溜め続けてきた泥を落とすように、辿々しく続けた。 「母さんは悪い人じゃない……けど、少し疲れてるんだ。きっと俺のせい。最後に母さんが笑ったの、俺が主席で入学したときだったかな……」  うん、と仁はまた頷く。握ってくれる手が温かくて、たった一言の返事が窓から差し込む光のような、まあるい〝かたち〟をしている。 「母さんが俺に失望して怒鳴るたびに……父さんと母さんが大きな声で喧嘩するたびに、割れたガラスが突き刺さるんだ。もちろん、そう感じるだけだよ。けど、……痛い。痛かった。痛くて怖くて部屋に逃げ込んで、ずっとピアノを弾いてたんだ」  そうすれば母さんも喜ぶし、俺も痛くない──奏は静かに付け加える。  ピアノの音は、奏の棘だらけの心を優しく包んで怖いことを忘れさせてくれた。ピアノの音だけは奏を裏切らなかった。夢中になればなるだけ、周りの音は遮られた。 悪意の〝かたち〟が今か今かと、奏を傷付ける機会を舌舐めずりをして窺う中で、ひと時の幸せに浸っていられたのだ。  仁の脳裏に、大学での奏の姿が浮かぶ。  いつも賑やかな場所を避けて過ごしていた。  いつもノイズキャンセリング機能の付いた黒いイヤホンをしていた。  点と点が、繋がるようだった。 「……だからか……いつもイヤホンしてんの。周りの音を遮って、自分の心を守るために?」 「……うん。はは……格好悪いよねぇ……」 「格好悪くねえよ」  ぎゅう、と奏の手を握る仁の力が強くなる。  今も、奏が恐れているからだ。仁の次の言葉が奏に牙を向く〝かたち〟になるんじゃないかと、不安で揺れている。  仁にはそれが歯痒かった。悔しかった。  けれど、信頼を勝ち取るための時間を待っている暇はない。 「格好悪くなんかねえよ……! お前は戦ってるだけだ。お前なりのやり方で、お前を傷付けるものから身を守るために」 「え……?」 「お前の母ちゃんがどんなだって、周りの奴らがどんなだって……! お前を傷付けていい理由なんか、ない。くそ……そんな奴らの弱さなんざ無視すりゃいいのに。お前、気付いてないだけで、もうずっと……ひとりで戦ってきたんだよ。奏は、格好良いよ」  ぽたり、と紙に落ちたインクが広がるようだった。  仁の言葉は奏の呪縛を柔らかにほどいていく。  奏は、ずっと思っていた。  自分は嫌なことから目を背けて逃げているだけなのではないか、と。イヤホンで蓋をして周りをノイズとして忌避していただけなのではないか、と。  そうではなかったのか──戦っていたのか。  自分を傷付けるものから逃げることも、強さなのだと言ってくれた仁。  涙を堪えるために抑えた彼の声が、微かに熱を帯びて震えている。  仁は自分の熱弁が少しばかり気恥ずかしくなったのか、奏の手を離して再びジムノペディを弾き始めた。  優しく切ない旋律。苦しさと癒しの狭間のような音。奏はぼんやりと鍵盤の上を滑る仁の指を眺める。 (頭も目も胸も熱い……変なの……悲しくもないのに)  空が奏の代わりに泣き出したようで、ピアノとアンサンブルを繰り広げていた。 「…………あ。そういえば、ファーストキスだったな……」  不意に、緊急事態とはいえキスをした事を思い出した奏が一人言のように呟いた。──瞬間、それまでの儚いメロディが一つ階段を踏み外したような音を奏でた。  そしてたっぷりと目を泳がせたあと、窺うように、そろり、と奏を盗み見る。 「っ……わ、悪かったって……怒ってんの?」 「ふふ……別にぃ? 応急処置なんでしょ? 怒ってないよ」 「あー……じゃ、せっかくだし、もっかいしとく?」 「!? ばか! 変態!」  調子っ外れのジムノペディが、今度は奏によって怒りと照れ隠しのジムノペディへと変わる。  けれど仁の笑い声と共に少し和らいだ旋律は、ふたりの気が済むまで繰り返し交互に紡がれるのだった。

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