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🎼Lesson11《ぱちん、と弾けたもの》

 館内に足を踏み入れると、エアコンの風が汗ばむ肌を心地良く撫でた。エントランスでは、ムソルグスキーの《展覧会の絵》が小さく流れている。プロムナードの部分だ。  その音に耳を傾けた仁は、一瞬だけ複雑そうに表情を曇らせてからすぐに奏を誘い更に奥へと進んでいく。 🎼Lesson11《ぱちん、と弾けたもの》  美術館という場所柄、耳に届く音は人の囁き程度だ。さっきの青葉が擦れ合うような音に似ている。奏の肩からは完全に力が抜けていた。時々、仁が耳打ちしてくる声が擽ったくて、その時だけはぴくん、と肩が跳ねたが。  仁が「この曲選ぶんならさ……うーん……絵はもうちょっと〝赤〟寄りのイメージじゃね?」と苦言を呈せば、「でもこの曲、まぁるくって蜜柑みたいな〝かたち〟だし……この絵にも合ってるんじゃない?」と奏。  能力者のふたりにしか交わせない特殊な感性が濃密な時間を作っていく。  仁が「この曲、〝緑と水色〟が混ざってる」と言えば奏が「波の〝かたち〟」と応え、奏が「でこぼこした歪な球体の〝かたち〟の曲だ」と呟けば、仁が「くすんだ〝灰色〟?」と見解を述べる。  いつの間にか時間は過ぎ、余韻に浸るように併設のカフェでアイスティーまで楽しんだ。あの絵はこうだ、あの曲はこうだ、と話は尽きることがなく、いつまでも続けられそうだったのだが如何せんアイスティーの方が先に尽きたのだ。  からんからん、とカフェの扉の鐘が鳴る。  名残惜しさと共にエントランスへと戻れば、入ってくる時には気付かなかったがアップライトピアノが置かれていた。艶々とした栗色の小さなピアノが、大きな窓から光が降り注ぐ広いエントランスで弾き手を待っている。 「お、ストリートピアノだ」 「この絵画展のために置かれてるっぽいね」 「……奏、ちょっと弾いてみる?」 「……………は!? いやっ……! いい! こ、こんなとこで弾けない!」  仁の提案に一拍遅れて頭が理解するや否や、奏は艶やかな黒髪を乱しながらぶんぶんと大きく頭を横に振った。  駅前や街中のストリートピアノに比べて人は少ないと言えど、衆目を集めて不特定多数の〝かたち〟を浴びる──そんな勇気は、奏の中にはまだなかった。 「そう? じゃ、俺が弾いて試してやるよ」  頑なに拒む奏に、仁はあっけらかんとピアノの前に座って軽快な音を鳴らし始めた。  皆が一様に足を止めて、その軽やかに転がるような音を紡ぐ仁を微笑ましく眺めている。  そして短いフレーズが間の抜けたカデンツで締め括られると、仰々しくお辞儀をする仁へ声を上げて笑いながら拍手を送っていた。 「……お前ね、仮にも音大生が《猫ふんじゃった》はないだろう……」 「ほーん? それじゃ、仮にも? 音大生様の? 奏くんは? 何を聞かせてくれるんでしょーねー?」  奏の呆れた声に、仁の茶化し煽る声が被さる。弾いてみろ、と言っているのだろう。その態度が癪に障る。ぶん殴りたい。  けれど真っ直ぐ奏を見つめる仁の瞳は、「大丈夫だ」と柔らかに細められ、ひどく優しかった。  奏のために椅子を半分空けてくれる。奏の部屋でジムノペディを弾いた時のように、ずっと傍に居ると態度で示してくれる彼に、奏の中の勇気がほんの小さく芽吹いた。  促されるまま隣に腰を下ろす奏に、周囲の好奇の目が突き刺さる。単に「次は何を弾いてくれるのだろう」という興味だ。他意はないと分かっている。  分かってはいるのだが──こわい。  周りの声はどんな〝かたち〟になるのか。イヤホンをしていない今、音の洪水に酔ってしまわないか。今も背中を撫でている幾つもの視線が、脅威の〝かたち〟となって奏に襲ってきやしないか。  鍵盤に乗せた指が、ブリキのおもちゃのようにぎこちない。呼吸が速まる。喉が詰まっている。頭の中に父親の怒鳴る声と母親の金切り声が奏を責め立てる。「出来損ない」と。「価値はない」と。「お前のせいで」「あなたがちゃんとしないから」──。  なかなか弾かない奏に、周囲が困惑の〝かたち〟を向けてくる。 (……ッ……こわい……どうしよう、やっぱり無理かも……)  もういいじゃないか、と奏は思う。  だって逃げることと戦うことは同義だと仁も言ってくれたじゃないか、と奏は自分に言い訳をする。  少しばかり見出した勇気が何だというんだ。傷付けられるくらいなら、逃げたって構わない。  白鍵に触れていた奏の指が離れた、その瞬間。怖気付く奏の手を仁がぎゅう、と握る。そして、冷たい指先へ唇を触れさせた。 「なあ奏……奏、聞いて。俺さ、ずっと居るから……ここに。俺に奏の〝色〟を見せて」  いつの間にか止まっていた息が、ほう……と漏れた。  逃げてもいいと言ってくれた仁なら、立ち向かう奏だってちゃんと傍で見ていてくれるはずだ。  このひとの隣なら、音が怖くない。  選んだのは──祈りと希望、赦しと愛の曲。 「《主よ、人の望みの喜びよ》だ」──足を止めて聞き惚れる観衆の中で、ひとりが囁く。  降り注いでくる光の粒は、現実のものか幻視に因るものか。奏は煌めく空気に薄く笑みを浮かべながら、視界の端に映る仁へ意識を向けた。  仁の目に映る自分の音は、どんな〝色〟だろう?  幸せに満ちた色であって欲しい。  祈りを込めながら、最後まで一心に指を滑らせた。  奏の指が鍵盤を離れる。一瞬の間を置いて割れんばかりの拍手と歓声がエントランス中に、いや美術館中に響き渡った。  けれど奏の瞳は、ただただ仁だけを捉えている。その瞳の熱に負けないくらいの熱を宿した仁は、感極まったまま思わず奏を抱き締めた。 「奏……! 奏、これがお前が作った世界に対する反応だよ! お前に見えてる〝音のかたち〟は、歪んでなんかないだろ!」  不意に奏の胸がギュッと軋んだ。  違う。これは、違う。安堵でも感謝でもない。ましてや憧れでも。  奏は、悟った。  全ての点と点が繋がった。  は──恋だ。  またひとつ、初めて知った感覚。  仁の言葉が、声が、眼差しが、染み込んでいく。  そうして気付けば周りの音が、色鮮やかなシャボン玉のような〝かたち〟となって溢れていた。  その一つがぱちんと弾けると共に、奏は仁の腕の中で、彼への恋心を自覚するのだった。

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