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🎼Lesson12《羽ばたこうとする鳥は止められない》
仁は、完璧な音を追い求めてきた。
音程は狂いなく、すべての鍵盤は均一なレスポンス。ハンマーのフェルトは、ひと針ごとに整えられ、音は濁りなく、角もなく、まるで精密機械のように響く。
生まれて初めてピアノの調律をしたとき、低音のややざらついた響きに心を奪われた。高音はときに暴れ、強く打てば鋭く刺すような響きが返ってきた。けれど、それを打ち消すために何度も何度も音を均し、一分の隙もない完璧に整えられた音を作り続けてきたのだ。
それなのに──どこか、物足りない。両親の音に届く気がしない。
父が母のために整えたピアノは素晴らしかった。心が震えた。
世間の反応、受賞歴、そして仁自身が視た〝色〟。あれこそが正解なのだと訴えてくる。
あとは何が足りない?〝完璧な透明〟に必要なものは?父にあって、自分にはないもの──〝完璧なピアニスト〟なのだと、仁は思い込もうとした。
無我夢中でピアノに向かい、がむしゃらになって演奏者に向き合った。時には明け方までピアノを鳴らし、寝食を忘れて没頭した。
けれど、どんな人でも完璧には程遠く、必ずどこかに〝濁り〟があった。
「そんなに必死になって何がしたいの」と呆れられるたび、「頑張らなくてもお前の家族みんなすげーんだからいいじゃん」と軽んじられるたび、「もうついていけない」と怯えられるたびに──仁の中で音を立てて何かが崩れていく。
次第に仁の頭の中は、音に向き合うことと同じくらい、諦めることが占拠しはじめた。派手な友達と遊び、自分を軽薄に見せて〝完璧な透明〟を諦めるに足る理由を探したのだ。
そんなときだった。大学で奏と出会ったのは──。
🎼Lesson12《羽ばたこうとする鳥は止められない》
「……ちょっと! 起きてる? それで、続きは?」
は、と仁の意識が現実に引き戻される。
初デートが成功に終わったからといって、今のふたりに遊び呆けている時間はない。
練習室にこもり早数時間。なかなかピアノを開け渡してくれない仁に焦れた奏が、「何か話してよ」とねだるので、面白くもない身の上話を掻い摘んで話している途中だった。
「えー……っと、どこまで話したっけ? ……ああ、そうそう……そんで〝完璧な透明〟が作れなくてヤケクソになってた俺は、諦めてパリピでクソハッピーなキャンパスライフを送ろうと思ってたのに奏に一目惚れさせられちゃいましたとさ」
「ほんと喋ると残念だよね……」
「黙ってるとかっこいいってことか……」
「ばか。もういいから早く弾かせてよ」
仁との軽快な掛け合いにも慣れてきた奏は呆れた面持ちを惜しげもなく向ける。笑いながら「もうちょい待って」と、もうこれで何度目か分からない修正を繰り返す仁の横顔を眺める奏。
黙っていれば格好いい、なんて口が裂けても言えない。けれど、ピアノに向かう仁の眼差しはいつでも静かに燃える熱を纏っていて、奏は何度だって胸を高鳴らせてしまうのだ。
「ねえ……でも、そろそろ時間が──あ、ほら」
仁が繰り返し音を作り直す時間を待つことは奏にとって全く苦ではなかったが、時間は許してくれそうにない。
レンタル時間の終了を告げるアラームが鳴った。
いつもの仁なら名残惜しそうな顔で「仕方ねえな」と笑うところだ。
それなのに、今日の彼は違った。
小さく舌打ちをした。
驚いた奏は目をまん丸に見開いて、その棘を纏った〝かたち〟を凝視した。
「っ……なに、どしたの……何かイライラしてる?」
今の奏は仁のおかげで、他人の発する〝かたち〟を目の当たりにしても体が竦んで動けなくなってしまうことは早々ない。けれど、いつもと違う仁の様子には思わず肩が僅かに強張った。その奏の一瞬の変化に気付いた仁が慌てて笑みを取り繕う。
「んー……や、試験まであと少しだからさ……悪い、焦ってんのかな。そうだ、今夜お前んちに行ってもいい?」
仁にとって、時間はいくらあっても足りないのだ。奏とふたり、最高の音を作りたい。きっと奏も同じように思ってくれてるはずだと信じて疑わなかった。今までの人とは違う、同じ熱量を持ってくれているはずだ、と。
だから奏の表情が曇ったとき、その意味を咄嗟に察することができなかった。
「や、あの……今夜は……」
「え、何かあんの?」
「あの……瑛二がね、飲み会に誘ってくれて……他の科の人も来るんだって」
「……は? なにそれ、合コンじゃん。試験前なのに? なに考えてんの」
断られるとは思っていなかった。断られたとしても、理由によっては残念に思うだけでそれ以上でもそれ以下でもなかっただろう。けれど、少し前までは他人と世界を共有することを恐れていた奏だ。その奏が誘われたとはいえ、進んで親睦会のようなものに出席するなんて仁には信じられなかった。
無性に苛立った。
腹の底からどろどろとした、黒く重い何かが湧き上がってくるような感覚が気持ち悪い。
抑えきれずに放った言葉は、思ったよりも冷たく響いて奏に突き刺さったようで、ビクッと奏の肩が揺れた。怖がらせるつもりはなかったのに、と仁はまたひとつ苛立ちを募らせる。
けれど、一度は仁の剣幕に怯んだ奏もひとつ深呼吸をしてから顔を上げると毅然とした眼差しで仁を見据えた。そして辿々しくも必死に紡ぐ。
「お、お前が連れ出してくれた世界だから……! 逃げたく、ない。他の人とも、ちゃんと、話せるようになりたい……でも、だから、っ……そ、傍に居てほしい、んだけど……」
「…………は?」
「一緒に来てほしい……」
「…………え?」
「だめ……?」
いつもは綺麗な奏の柳眉が、へにょり、と垂れ、凛とした表情はいつの間にか不安に揺れている。新しい世界へ飛び込むために、仁に傍に居て欲しいのだと訴えている。
仁の中に溢れた真っ黒な感情はたやすく霧散していき、むず痒く淡い感覚だけが残った。
「もー……何だそれ、かわいすぎかよ……ダメなわけねえだろぉ……」
そうしてあっさり白旗を揚げる仁だった。
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