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🎼Lesson16《応急処置、して》

 ふたりが二重唱を続けること、十数分。  いつの間にか大きなマンションの前に辿り着いていた。「持ち帰る」と仁は言っていたが、まさか本当に連れて帰られると思っていなかった奏は、緊張と喜びで完全に酔いがさめてしまっていた。 🎼Lesson16《応急処置、して》 「あの……こんな遅くにお邪魔して家族の人に何か言われない?」 「大丈夫、一人暮らしだし」 「……こんなおっきなマンションに……?」  音大に通う学生は裕福な人が多い。それでも、これは規格外だ。  奏が唖然としている間にコンシェルジュが微笑むエントランスを抜けて、エレベーターでぐんぐんと上階を目指していった。 「俺んちさ……ほら、ちょっと家族が特殊じゃん? セキュリティばっちりなとこに放り込まれたんだよね。あ、俺が悪さしてるからじゃねえからな?」 「……玄関ひろぉ……」 「聞いてる? ……ま、いっか。上がれよ。水持ってくる」  口が開いたままの奏の耳には仁の言葉は一言も届いていない。連れられるままリビングへ通され、そこで初めて我に返った奏はモデルルームのような部屋をぐるりと遠慮なく見回した。  一人暮らしなのに、こんな大きなソファーが必要か?とも思うし、テレビのサイズがおかしいとも思う。  けれど、それよりも生活感のない雰囲気の方が気になる。これだけの部屋だからお手伝いさんのような人が来ているのだろうか、と所在なさげに立ちすくむ奏の目は半開きのドアがとまった。 「……いやいやいや、だめ。絶対だめ! だって完全なプライベートだぞ、俺……だめ……だめだってば……!」  好奇心と良心が奏の中で殴り合いをしている。そして瀕死の良心を押し退けた好奇心に促されるまま、奏はそっとドアの隙間から中を覗き込んだ。  ふわりと漏れ出すシトラスが、ここでいつも仁は過ごしているのだと教えてくれる。 「……いつもの匂いって香水じゃなくて部屋の匂いなのかな……」  奏が呟いた、そのとき。 「……えっち。覗き見ですかぁ?」 「うひゃあ!?」  いつの間に背後に迫っていたのか、仁の声が耳に直接吹き込まれると、文字通り奏は素っ頓狂な声を上げて飛び上がった。  こっそり覗いていた気まずさよりも、耳に残る仁の声がスプーンからゆったり垂れ落ちて絡み付く蜂蜜のような〝かたち〟であることが妙に気恥ずかしく、奏は真っ赤な顔で眉を吊り上げる。 「ば、ばか! 急に後ろに立つな!」 「はは、そんな顔で怒っても全然怖くありませーん。覗いてないで入れば?」 「え……や、でも……」 「ほら、おいで」  誘うように半分だけ開いていたドアが仁の手によって開かれる。  シトラスの香りが溢れて広がり、くらりと眩暈がした。まだ酔っているのかもしれない、と一歩踏み出すと意外と足取りはしっかりしている。  躊躇いがちに仁のプライベートな空間へと踏み込む奏。背後で扉が閉まる音に、思わずドキッと鼓動が跳ねた。 「顔色、ちょっとはマシな気ぃするけど……ちゃんと水飲めよ」  仁にペットボトルの水を差し出されるまま受け取る。  カーテンが開いた部屋に滑り込む月の光が、青く沈む部屋を照らしていた。  子犬のように跳ね回る鼓動を鎮めるためにまずは手渡された水を一気に半分ほど飲み干す。  奏の心臓の音は、相変わらずショパンの《子犬のワルツ》だった。もっとも、それよりもう少し甘い響きをしていたけれど。  奏を休ませる準備をするために仁が部屋の中を動き回る。そのたび、シトラスがかき混ぜられて奏の鼻腔と記憶を擽ってくる。  先日、奏の部屋で母の〝かたち〟に襲われたとき、ずっとこの香りに包まれていた。朧げな意識の中だったけれど、確かに覚えている。抱き締めてくれる腕の強さも、鼓動の速さも、そして唇の柔らかさも──。 「おい、突っ立ったまま寝んなよ。ていうか……マジで平気?」 「……だめかも」 「えっ!? 気分悪い!? 吐きそう!?」  ベッドを整え終わった仁に顔を覗き込まれる。影になってるけれど、優しい瞳が此方を窺っていることが分かる。奏の顔色を見るため、十五センチ分を縮めようと屈んでくれる仁を見上げながらも奏の視線はその唇に釘付けだった。  クラクラするのはお酒のせい?  それとも──?  気付けば思考が言葉に乗っていた。 「……〝応急処置〟……して」 「……は?」  目を見開く仁はその意味を必死に考える。けれど巡らせれば巡らせるだけ、結論がひとつに着地するのだ。  そんなわけない、奏は酔っていて分別がないのだから都合の良いように解釈するな──懸命に自分自身に言い聞かせる。  けれど仁だって、多少なりともアルコールの影響を受けているのだ。自分のテリトリー内で無防備に佇む奏を前にして、いつまで紳士で居られるか分からない。  だというのに──。 「……してよ」  奏の切なそうな熱い瞳と、震える声。  そのたった一言に、どうしても他の意味は考えられなかった。  胸の奥がきゅう、と音を立てる。  ごく、と思わず喉が鳴る。  まるで童貞のようだと心の中で自分へ向けて嘲笑を浮かべるものの、実際の仁の顔からは余裕も平静さもかき消されていた。  さり、と足の裏とラグが擦れる音が静かな部屋に響く。  半歩、距離を詰めた。  奏の肩がびくっと跳ねる。 (こんなビビってるくせに……こいつ。くそ、可愛い……)  できるだけ、怯えさせないように。  できるだけ、優しく。  できるだけ、できるだけ──。 「……っ……ン……」  前髪が絡み合い、唇が触れる。  そっと奏の肩に置いた仁の両掌からじんわりと熱が移り、一瞬強張った奏の身体から力が抜けた。  様子を見ようと一度唇を浮かせた仁。  それを追いかけるように爪先立ちになる奏。  無意識に求められるその挙動に、仁は堪らなくなって片腕を奏の腰に回して強く抱き寄せた。 「っ、は……ぁ……」  触れては離れ、重なっては浮く口付け。  ぴったりと寄り添う身体、汗ばむ肌。  どこに手を置いたらいいのか、どうやって呼吸をしたらいいのかさえ分からない奏の、そんな不安ごと吹き飛ぶかのような、いくつもの瞬間が重なり合う。  呼吸が乱れ、重なる肌の熱に戸惑いながらも、奏の心は甘い波に飲み込まれていった。 「ん……ふ……っぅ、ンん……」  ちゅ、ちゅ、と小さな音が鼓膜を突き刺すたびに奏は鼻から抜ける甘やかな吐息を漏らした。  全身が悦びに震えている。  口付けの合間に「鼻で息するんだよ」と低く笑う仁の声が掠れていた。  何分、何十分経ったのか分からない。  ただ、世界が二人の熱と音だけで満たされている──そして、ついに奏の全身から力が抜けて膝がカクンと崩れた。 「わっ!?」と声を上げて仁にしがみつく。  咄嗟に奏を抱き留めた仁が「おっと」と声を漏らしてそっと奏を後ろのベッドへ座らせた。  いつの間にベッドまで来ていたのか、乱れる呼吸を整える余裕などない奏の耳の先に朱が走る。  月明かりの下に浮かび上がるベッドが、やけに生々しい。  それに、仁の瞳が熱くて蕩けそうで──けれど仁の瞳に映っている奏も同じ顔をしていた。  仁は理性を手繰り寄せるかのように一度だけ、深く息を吸った。 「……、もう少ししていい?」  奏が頷くと同時に再び唇が重なり、押し倒されるまま奏はベッドに沈み込むのだった。

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