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🎼Lesson18《振り絞れるだけ振り絞った勇気》
🎼Lesson18《振り絞れるだけ振り絞った勇気》
(なんで……俺、知らないうちに何かしちゃったのかな……)
晃と瑛二の応援に背を押され、息を弾ませながら仁の後を追う奏の頭の中は、その行動力とは裏腹に疑問でいっぱいだった。
──あの夜、キスをしている間に奏は眠りに落ちてしまった。気持ち良くて嬉しくて。夢中になってしがみついているうちに、アルコールの影響もあって意識を手放してベッドに沈み込んだのだ。仁の触れる手が最後まで優しかったことを覚えている。
その翌朝もおかしな様子はなかったはずだ。
ふたりで寝坊して大慌てで身支度をした。余韻も何もあったものじゃなかったが、逆に変にギクシャクしなくて良かったとさえ思っている。少し照れたように笑いながら「おはよう」と掠れた声で囁く寝起きの仁のせいで、朝から心臓がフル稼働ではあったが。
(そのあとも普通だったと思うんだけどな……昨日はどうだったっけ……一昨日は……?)
時間が空けば奏と落ち合って練習室にこもり、ああだこうだとピアノに向かいあう。時には言い合うこともあるけれど、あの夜以降も変わらず楽しかった。仁も子供みたいに笑っていた。
それなのに、今日の仁はどこか遠い。
いつ、何が仁を変えてしまったのか。
追い付いた先で、その真相を知ることができるだろうか。
(あっ……居た! まだ理央くんたちと一緒だ!)
角を曲がった先の喫煙所で仁と理央、そして何人か調律科の学生と共に煙に包まれている仁を見つけた。
時折、煙草を吸わない仁から匂いがしていたのはこの所為かと奏の足が怯んだ瞬間、理央が発した「奏くん」という一言に奏は慌てて身を翻し死角に隠れる。
別館の隅に置かれた小さな灰皿の周りには、仁たち以外、誰も居なかった。幾人かの仁の友達が燻らせる紫煙が、奏のもとにも強い焦げ臭さを漂わせている。
「仁、お前……さっきの何だよ。せっかく奏くんが手ぇ振ってくれてたのに」
「……理央に関係ねえだろ」
聞いたことのない声音だった。奏に向けられているわけでもないのに、その〝かたち〟が煙草の匂いと相俟ってタールのようにどろりとしている。思わず母の悪意を思い出してしまい、奏の肩に力が入った。
「関係ないって……まあそうだけど。何だよ、上手くいってないのかよ?」
「……だから、別に付き合ってるとかじゃねえから……」
「そうじゃなくてさ、確か今度の共同試験のペアだろ。上手くいってないのか?」
重ねて理央が問い掛ける。
奏本人が訊ねるよりも確かな答えが聞けるかもしれない。どんなに小さな声だったとしても絶対に聞き漏らしたくない、と奏は全神経を集中させるかのように息を止めた。
「……ん、いや……あー……」と仁が言葉にならない声を漏らす。
奏の心臓は弾けそうなほど喚いていた。仁が理央の言葉を肯定したらどうしよう、ペアを解消されたらどうしよう──喉がカラカラに乾いて手が汗ばんで冷たくなっていることに気付きながらも、奏はその場を動けずにいた。
「……マジで? マジで上手くいってないんだ?」
「うるせえ……そうじゃねえよ。ちょっと……何つーか、あー……俺の方がスランプっつーか……」
「え、俺にも望みあるってこと?」
「話聞け。あるわけねえだろ。奏に手ぇ出したらマジで許さねえからな」
理央の言葉に被せるように仁の声が乗る。そのあと「痛てぇ!」と届く理央の声に、仁が牽制のために何かしらの攻撃をしかけたのだろうと分かる。
奏はほっと胸を撫で下ろした。
嫌われたわけではなかったのだ。
(スランプ……スランプか、そういえば最近ちょっとずつ調律の時間が長くなってた気がする……難しい顔してることも多かったかも)
安堵と共に別館の外壁に背中を預ける奏の脳裏には、ピアノに向かう仁の横顔が浮かんでいる。その真摯な瞳に迷いがあったなんて知らなかったと奏の思案が深くなる。
原因は何だろう、と直近の仁の様子を思い出そうと黙考する奏は、彼らが煙草を揉み消して此方へ来る足音にも気付いていなかった。
「……奏?」と、仁に声をかけられるまで。
「ひわっ!? ……っ……び、びっくりした……!」
「いや、びっくりしたのはこっちだって……なに、どした? 俺に用事?」
さっきまでのタールみたいな声の〝かたち〟は微塵も感じさせない柔らかな声。いつもの仁の喋り方だ。奏を驚かさないように、そっと包んでくれるような甘い響き。それだけで奏の漠然とした不安は跡形もなく消え去った。
けれど、まさか後をつけてきましたとは到底言えない。あたふたと動揺して目が泳ぐ奏に、仁は口元に笑みを湛えたまま奏の言葉を待ってくれている。
何だ何だと仁の肩越しに奏を覗き込む仁の友人たちが、まるで好奇心に溢れた猫のようだ。気まずくて居た堪れない。
何とか奏に近付きたいと仁のガードを掻い潜ろうとしている理央から奏を守るため、仁が半歩だけ奏に身を寄せるとシトラスの香りが濃くなった。
より一層、奏の焦りが募る。
もう少しで混乱に呑まれて逃げ出しそうだった奏の視線の先に──天啓を見付けた。
「花火大会! 今日! ……い、一緒に……行きたい、な……って……あの……」
これだ!と深く考えず、目に付いた花火大会の貼り紙を渡りに船だとばかり利用した奏だったが、そろりと見上げた先で仁が目を丸くしていることに気付いて途端に耳の先まで熱がのぼった。
「あ、あの、いや、えっと……」
意味を為さない音ばかりが唇から漏れる。
これではわざわざ追いかけてきて、友人たちの目の前で仁をデートに誘っているようにしか見えない。実際、誰の目から見てもそうなのだが張本人の奏だけは誤解だと言うに言えず、まるで酸素を求める金魚のようだった。
「……デート?」
「えっ?」
「デートの誘いだって思っていいの?」
「あっ……ぁ……う、うん……!」
動揺を続ける奏に、根気強く繰り返す仁の表情が読めない。継続して驚いているようにも見えるし、気怠そうにも見える。照れているようにも。
どれが正解なのか分からず狼狽えながらも奏が何度も小さく頷いた途端、仁の眦がふわりと緩んだ。肩がほんの僅かに下がったことで緊張していたのかと合点がいく。
距離を詰められていることによって、間近で仁のはにかむような笑みを直撃してしまった。奏は否応なく頬に熱が溜まっていき、慌てて顔を伏せた。
「? 何で下向くんだよ……奏、顔見せて」
「や、やだ……!」
「ふは、耳まで真っ赤だ。頑張って誘ってくれたんだ?」
嬉しい、と付け足す仁の長い指が、火照った奏の耳介をそっと撫でた。ぴくっと肩を跳ねさせる奏がそろりと視線を上げれば、仁は唇の端を僅かに綻ばせ「可愛い」と呟く。
何だこの甘い空気は、と奏は戸惑いながらも嬉しくて仕方がなかった。恋愛に疎い、もとい初心者の奏には好きな人の友達に見守られながらデートを取り付ける状況は羞恥が先立つけれど、仁の笑みにすべてが吹き飛んでいった。
「じゃあ今日の夜、迎えに行く」
「えっ……でも、待ち合わせた方が面倒がないんじゃ……?」
「心配だから。あー……ほら、奏、可愛いから連れてかれたら困るだろ?」
「……ばかじゃないの……」
そういうところ、と返す仁の眦がますます和らいだ。
照れ隠しに悪態をつきながら唇を尖らせる奏の愛らしさが、仁の心に沁み入っていく。
スランプだとか自分の中の噛み合わない違和感だとか、焦りも不安も何もかもが溶かされていくようだった。
次の講義がなければ迷わず奏を連れ去って練習室にこもるところだ。けれど迫る時間に致し方無しとばかり、仁は友人たちと連れ立って行ってしまう。
残された奏は、くたびれた花火大会の貼り紙に向かって感謝を伝えるかのように頭を下げた。
そうして弾む心を抑え切れず、カフェテリアへと駆け出していったのだった。
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