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🎼Lesson22《ほころび》

「うわ……まだ目腫れてる。でも今日は行かなきゃ……」  奏が初めての恋に破れて数日。  どうやって祭り会場から帰ってきたのか覚えていない。気付いた時には真っ暗な部屋の中、ベッドで泣き崩れていた。  まだキスの余韻が残っている唇から漏れる嗚咽。頬に触れた仁の掌の熱を消し去るように溢れる涙。  悲しいのか苦しいのか分からない。ただ、身が裂かれそうな痛みだけは理解できた。 「はー……失恋してもお腹はすくし朝は来るんだよなぁ……あ、パンの消費期限やばい」  厳密に言うと「失恋」ではないのかもしれない。けれど、仁があの場で聞こえなかったふりをしたのは明白だった。  それが全てではないが、それが答えだろう。  奏は焦げかけたトーストをかじる。  甘酸っぱさがあの日のいちご飴を嫌でも思い出させる。 (……いちごジャムにするんじゃなかった)  あの日、一晩中泣いて空が白んできた頃にようやく寝入ったため、次の日は顔中が浮腫んでパンパンだった。さすがに講義どころではないので、方々に「風邪をひいた」と連絡をして休んだ。  瑛二は見舞いに行きたがったが、何かを察した晃が「欲しいものがあったら持っていくから」と電話越しに慰めてくれた。  仁からの返事は昼過ぎだった。「早く良くなれよ」とだけメッセージが入っていた。  優しい言葉なのか、素っ気ないのか。  深読みしては、また涙が滲む。  そうして済し崩しに二日目も家にこもってしまったのだが、こんなことで単位を落とすわけにはいかない。 「……大丈夫、大丈夫。よし、頑張ろう」  玄関の鏡の前で自分を励ます。  にこ、と頬を緩めると腫れた瞼が痛々しいけれど、思ったよりも上手く笑えていた。  仁と顔を合わせて同じ笑顔が出来るかどうかは分からないが、奏は炎天下へと一歩踏み出した。  奏の耳は塞がれていない。ポケットの中にはお守りのようにイヤホンが転がっているし、ひとりで歩く大学までの道はまだ緊張する。  けれど、何があっても仁が一緒に拓いてくれた世界をなかったことにはしたくなかった。 「あっつ……」  鼓膜に叩き付けられる蝉騒(せんそう)が、まるで奏の胸のうちを表しているようだ。  けたたましく痛みを叫ぶ心から目を逸らし、奏は大学の門をくぐった。 🎼Lesson22《ほころび》  ──やり直せるなら、どこからだろう。  蓋を閉めたピアノに突っ伏したまま、仁は窓に切り取られた四角い空を睨んでいた。  練習棟は完全防音ではない。遠くから聞こえる楽器の音が、仁の耳にも目にも鈍く届いていた。  焦燥感にも似たこの苛立ちの原因が何なのか、分かっている。  何をしてもだめだった。  何を弾いても、何を聴いても、何を食べても。  強く目を閉じて愛らしい笑顔を思い浮かべようとしても、悲しそうに笑う顔しか出てこない。 (……ずっと奏の顔がちらついてる……)  祭りの日、抑え切れずに奏を掻き抱いてキスをした。愛おしくて仕方なかった。奏を抱き締めて打ち上がる花火を目にした瞬間、世界を彩る〝色〟はこんなに美しかったのかと心が震えた。  けれど、奏の言葉にすべてが止まった。  一瞬湧き上がった喜びを押し除けて、濁流のように恐怖が押し寄せる。  真っ直ぐな奏の眼差しが、言葉が、怖かった。  仁の構築した世界を容易く崩壊させてしまう奏の想いが怖くて、咄嗟に聞こえないふりをした。逃げたのだ。  他人からの感情に敏く、言葉が〝かたち〟となって視える奏はどれほど傷付いただろう。 「くそ……っ!」  自分への怒りが行き場をなくして体の中をのたうち回っている。苦しさを吐いた仁の言葉と同時に、練習室の重い扉がきぃ、と鳴った。 「かなっ…………ぁ……貴央、か」  会いたくて会いたくて、会いたくないひと──奏だと思って勢いよく体を起こした仁の瞳に映り込む人影は、貴央だった。 (ドアを開ける音の〝色〟が奏に似てるとか……馬鹿だな、俺……)  自嘲する仁に貴央の瞳がくるりと室内を見回す。 「仁くんが見えたから挨拶しようかなって思ったんだけど……ひとり? 何かあった?」  ふわ、とほころぶ笑みさえどこか奏に似ていて、仁はギシギシと悲鳴を上げる胸からそっと息を吐いた。  奏のことばかり考えているからだろうか、貴央の声の〝色〟も奏に似ている気がしてならない。  仁は貴央に椅子をすすめるために立ち上がって窓枠に腰を預けた。四角く切り取られた空はさっきまでの能天気な快晴を翳らせている。 「あのさ……貴央はもし、やり直せるならどこからやり直したい?」 「どういう意味?」  ピアノの前に腰を下ろす貴央が訝しげに首を傾げた。 「……もしも、人生やり直せるとしてさ……いつからやり直したい?」  繰り返す仁に貴央の瞳がすう、と一瞬だけ細まる。祭りの日、奏が「観察されているようだ」と感じた眼差しと同じだった。 「どうだろう……やり直せるとしてもやり直さないかも。だってまた仁くんと出会える保証なんてないでしょ?」  仁の反応を待ちながら、貴央は胸の内でほくそ笑んだ。百点満点の答えだろう、と。きっと「彼」ならこう答えるはずだから。  貴央は自分の言葉を受けた仁が微笑んでくれると期待したけれど、仁はぎこちなく苦笑するだけだった。拍子抜けしたように言葉に詰まる貴央を意に介さず、仁は続ける。 「俺はさ、どこからやり直したらいいか、もう分かんねえ。子供の頃? 教務課の前? 家に踏み込んだとき? 一年前の夏? ……どこからやり直したら……この苦しいの、消えんだろうな」 「……よく分からないけど、奏くんと何かあったんだね」  貴央の疑問符のつかない問いに、仁は否定も肯定もしなかった。それが答えだと理解するや否や、貴央から小さく笑みがこぼれた。 「……少し、距離を置いてみたらどうかな? もちろん試験まで日がないから練習は必要だと思うよ。でも僕で良かったら付き合うし」  貴央の鼓動が速まる。焦るな、急くな、と自分に言い聞かせながら貴央はピアノの蓋を開けた。 「奏くんには及ばないけどさ。僕、って……よく言われるんだよねぇ」  白鍵と黒鍵に乗せる指が期待で震えていた。仁は何も言わない。けれど、貴央はこれこそ待ち望んでいたチャンスだとばかり、奏の姿と音を記憶から引き摺り出す。 「……ショパンか……」  貴央が奏でる曲は《夜想曲第二番 変ホ長調 作品9-2》だった。もっともよく知られたノクターンだ。  貴央の指が鍵盤を撫でるたびに、甘く幻想的な音が仁の視界に〝色〟として現れる。  不安定なぼんやりとした乳白色だったそれが、徐々に輪郭を持ち始めるとともに変化していく。 「……青い…? え……うそ、だろ……透き通った、ブルー……!?」  最初は漫然と貴央の作る音色に耳を傾けていた仁が、その〝色〟を見つけた途端に曇っていた瞳に僅かながら光が差し込んだ。  奏が作る音と、似ている。  技術は突出していると言えないが、その音の〝色〟が仁の心臓を揺さぶった。  少しだけ、一瞬の揺らぎがある。翳りもある。どこかは分からないが、違和感も確かにある。けれど、追い詰められた今の仁にとって、それは瑣末なことだった。 「すげえ……奏の〝色〟と似てる……!」  驚きと共に落とされた言葉に貴央の指が止まった。期待に膨らんだ胸がはち切れそうだった。 「っ……仁くん、僕……僕じゃ、奏くんの代わりにはなれないかな……?」 「えっ?」  貴央が縋るような目で仁を見つめる。  貴央は、仁が自分を見てくれる日を何度も何度も夢想してきた。自分だけに甘く笑いかけてくれる瞬間を、事細かにシミュレーションしてきたのだ。 「僕、仁くんが望むなら奏くんの音を出してあげる。完璧な音で弾いてあげる。何でも叶えてあげる……!」  懸命に言い重ねる貴央の必死さに、仁は面食らう。  貴央とは理央ほど関わったことはないが、慕われていることは何となく気付いていた。 (奏の……代わり? そんなこと……でも、俺の〝完璧な透明〟はまだ死んでない……?)  それは、積み上げてきた世界が揺らいでいる仁の心に忍び込む、悪魔の囁きだった。 「俺は……でも……」  今もまだ、奏の悲しそうな笑みが頭にこびりついている。  何を選んでも苦しいし、何も選ばなくても苦しいことは分かり切っていた。 (それでも……貴央の手を取れば、少しはマシになるのか?)  必死な面持ちの貴央と奏が重なる。 〝完璧〟が崩れ始めている仁は脆かった。  仁の背中越しの四角い空が、濁って翳りを強くしていく。

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