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🎼Lesson23《崩壊の兆し》

「貴央、俺は──」 「悪いけど、俺は何でもは叶えてあげられないよ。俺の音は俺だけのものだ」  仁の中で複雑な感情が逃げ場をなくして蜷局を巻く部屋の中へ、雲間から差し込む光のような声が落とされた。  ハッとして顔を上げる仁。期待と困惑に心が強く揺さぶられる。  練習室の扉がいつの間にか開かれていた。  そして、渋い顔の理央の後ろに、奏が立っている。 「あ……っ」  仁は焦燥感に背中を押されて腰掛けていた窓枠から立ち上がる。それに応えるかのように、理央の影に隠れていた奏が一歩踏み出した。 「俺は、お前の作る音が好きだから……ふたりで作れると思ったから。だから一緒にやろうと思ったんだよ」 「かな、で……」  奏の姿を見た途端、仁は泣き出しそうな顔つきでくしゃりと顔を歪めた。色々な感情が混ぜ返されて爆発しそうで、全身が強張った。  けれど、目の縁を赤く腫らしながらも毅然とした表情をしていた奏が、ふと仁の顔色の悪さに気づくと張り詰めていた空気がふっと緩んだ。  躊躇いがちにゆっくりと仁に歩み寄って、その目の下の隈をそっと撫でる。 「……寝てないの?」 「……うん」 「ひどい顔だよ」 「……っ、うん」  奏の声が陽だまりの〝色〟をしている。  酷い態度を取った仁に、まだ柔らかくあたたかい〝色〟で応えてくれる。  仁は子供のように頷くことしかできなかった。 「……少し、話そうか」  温もりが離れていくことを恐れて顔を上げた仁に、奏が静かに告げた。 🎼Lesson23《崩壊の兆し》  奏たちが向かった先は、穏やかな老紳士がマスターを務めるこじんまりとした喫茶店だった。 「いらっしゃい。いつもの席かね?」 「はい、お邪魔します」  天井近くのステンドグラスから差し込む光がアンティーク調のテーブルに柔らかな影を落とし、重厚な革張りの椅子は座るとどこまでも沈み込むようだった。 「ここ、俺のお気に入りなんだ。大学から近くて静かだし、マスターの選曲のセンスが良くってさ」  奏の目の前で俯く仁の顔は、改めて見てもひどいものだった。  いつも通り一緒に行動していた理央も、何とか仁の心の隙間に入り込もうとしていた貴央も取り繕う仮面の下を暴けなかった。気付かなかった。それを、奏は一目で見抜いたのだ。  絶対についていくと言って譲らなかった双子たちが、少し離れた席で仁と奏を眺めている。 「……俺はお前にそんな顔をさせたかったわけじゃないんだけどな」  目の前に置かれたブラックコーヒーから立ちのぼる湯気に目を落として、奏が呟く。  こんなに憔悴した顔をさせてしまうほど、自分の想いは仁にとって重く苦しいものだったのかと胸を軋ませる奏に、仁がぽつりと漏らした。 「俺は……奏が作る音が好きで……俺なら、もっと完璧に響かせてやれるって……思って……」 「今は違うの? もう俺の音は、好きじゃない?」 「! そうじゃない! そうじゃ、なくて……っ」 「最近、お祭りに行く前から何か悩んでたよね。……スランプは、俺のせい?」  違う!と間髪入れず仁が吠える。  他に客が居ないとはいえ、マスターの驚いたような眼差しが刺さった。  声を落とした仁が続ける。 「違うんだ……ごめん、違う……でも俺の調律で奏は完璧になれるし、奏の音で俺の〝色〟は完璧になるんだ……」 「お前の作るピアノは……俺のピアノは、完璧じゃないとお前には届かないのかな」  静かに尋ねる奏に仁の混乱が浮き彫りになる。心臓がぎくり、と跳ねた。  不意に思い出される去年の試験。  仁は自分の調律したピアノで弾く奏の音の〝色〟が、完璧な透明じゃないことを理解していた。目指しているものとは違うと分かっていた。  今まで仁が出会い別れてきた、どんな演奏家も〝色〟が濁っていた。近しい音を作れたとしても、仁の望む〝透明〟ではなかった。  けれどそれは、奏だって同じことだったはずなのに──それでも、どうしようもなく心奪われたのだ。  無意識に見ないふりをしていた真実を突き付けられた仁が、愕然と目を上げる。  泣き腫らした奏の目は痛々しいほど赤いが、失望も憂懼も映してはいなかった。  真っ直ぐに仁を見つめる彼は、苦痛を抱えてなおも(こうべ)を上げ凛としている。 (……あ、れ……? じゃあ俺は最初から……ただ、奏が欲しかっただけって……こと、か……?)  自分の信じていたものが、遂に崩壊していく。  何が正解なのか分からず、仁はぐしゃりと髪を掻き乱した。  長く信じ、追い求めてきたものが間違いだったとは思わない。でも目の前の奏は、仁にとっての「世界」を覆すほど、眩しくて何色かすら判別できない〝色〟を纏った光を伴っていた。  思わず目を背けたくなるほど、自分の信念を根こそぎ剥がされてしまいそうなほどの奏だけの〝色〟だ。  長い沈黙が続いた。  仁も奏も、もちろん理央と貴央も誰も口を開けなかった。  重い空気を察したからか、視界の端で様子をうかがっていたマスターが、何かを閃いてゆったりと腰を上げて奥の部屋へと消えていく。ほどなくして店内のジャズが消えた。  静まり返った四人だけの店内は、息が詰まりそうなほど静かだ。  コーヒーもすっかり冷めていた。深い褐色の液体が奏の喉を下っていくと、じわりと苦味が鼻から抜ける。  大きな窓の外では、いつの間にか小雨がそぼ降っていた。 「……あ、《G線上のアリア》だ」  ふと店内から流れ始めたピアノ曲に三つ隣の席から理央が呟くと同時に、奏の前に花びらがはらはらと落ち始める。  アダージョで始まる厳かで穏やかな曲は、シンプルながら緻密に設計された構造美がある。JSバッハの傑作のひとつだ。  その曲にあわせて、仁と奏の間に花びらが舞っているのだ。  美しい幻視に見惚れるように奏の目が宙に向けられていた。 「……母さんのピアノだ」 「え?」 「この曲……母さんのピアノと父さんの調律なんだ」  ひとりごとかと思うほど小さな声で繰り返す仁。奏はハッとして、まだ記憶に新しい美術館でのデートを脳裏に思い起こした。そのときの仁の複雑そうな顔と同じだ。母親のピアノだと気付いたからだろうか。 「あ……この前の、《展覧会の絵》も?」 「……うん」  この音が、仁が求めていた〝完璧な透明〟なのかと奏はBGMに耳を傾けた。  安定した技術に、歌うような美しく透き通った音色。  確かに仁が理想とする理由は分かる。  けれど、こんなに潰れそうになってまで追い求めるものだろうかと、奏の視線が花びらから仁へと移る。 「俺んちさ、ほら……前にも言ったと思うけど音楽一家なんだよね。父さんが調律師で母さんがピアニスト。で、姉貴が歌手で兄貴が作曲家。みんな賞取ったり海外ツアーしたりでさ」 「すご……」 「はは、すごいだろ? ……その中で、俺だけなーんもないの!」  場違いなほど明るい仁の声の〝かたち〟をわざわざ視なくとも、その悲痛な声色で分かる。  仁は優秀な家族に囲まれ愛されて育ち、〝色〟を視るようになってからは劣等感に押し潰されそうになって生きてきたのだろう。一歩踏み外しただけで、落胆されるのではないかと怯えて眠れぬ夜を過ごしたこともあったのかもしれない。  ここで優しい言葉をかけることは簡単だった。「そんなことない」「お前もすごいよ」と慰めることは造作もないことだった。  けれど、それはきっと、仁が百万回は言われてきた言葉だ。奏は口を噤んだ。  奏が言い淀んでいるうちに、仁はまた沈んだ声で訥々とこぼす。 「……奏となら純度の高い音を……完璧な音を、作れると思ったんだ。同じ熱量で同じ方を向いて……けど、」 「……けど俺の『好き』が、邪魔をした?」  やはり転換期はあの祭りの夜だったのか、と奏が哀しそうに小首を傾げる。  仁は困惑と怯えとが混ざった複雑そうな顔で奏を見つめたあと、テーブルのコーヒーカップへと視線を落とした。 「すげえ嬉しかった」と呟く声に迷いはなく、声の小ささとは相反して力強い。嘘ではないのだろう。  けれど、そのあと仁は、もう数秒押し黙ってから苦しそうにぐしゃぐしゃに顔を歪めた。 「ッ可愛くて愛おしくて堪らなくて……! でも制御できなくて、怖くなった。今のままの奏がいいのに、俺の中のクズみてえな劣等感が完璧を求め始めて……奏も離れていくんじゃないかって……怖くて、ッ、怖くて……!」  仁の声が震えている。ぎゅうと握り締められた拳が血の気を失って真っ白だ。  けれど悲痛な面持ちの仁を前にして、奏は呆気に取られていた。 (……なんだ、俺のこと大好きなだけなんじゃん)  どんな理由が飛び出してくるのかと思いきや、彼の口からは「奏が好き」「でも怖い」「だけど離れたくない」「やっぱり怖い」といった情熱的な〝駄々〟だった。  もちろん、そこに行き着くまでの仁の葛藤や傷、途方もないほどのプレッシャーがあることは奏だって理解している。  それでも、仁の吐露する苦しみが奏を安堵させた。 「あー……じゃ、逃げたらいいよ」  仁が呆然と顔を上げる。  突き放されたのか、呆れられたのか。  仁は喉を競り上がってくる熱いものを飲み込むように喉仏を上下させた。 「……失望、させたか?」  震える声で訊ねる仁の目の前がぐにゃりと歪んだ。

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