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🎼Lesson24《音楽バカ》

 怯える仁に「違うよ」と奏が双眸を和らげる。テーブルの上で握り締められた仁の手が真っ白だ。奏はやんわりとそれを両手で包んで「違う」と、もう一度答えた。 「逃げることも戦うことだって好きな人に教えてもらった。だからお前も今よりもっと息がしやすい場所に逃げてもいい」  いつか、奏を救ってくれた仁の言葉だ。 《G線上のアリア》は中盤の不安定な旋律を越えて一転、穏やかな収束を見せ始めていた。  言葉の真意を汲み取れない仁は、訝しげな双眸を奏に目を向ける。 「だけどね、俺は追いかけるから。お前がどこに逃げても、どこに隠れても、追いかけて見つけて……お前が根負けするまで『早坂仁、お前の〝音〟が欲しい!』って付き纏ってやるんだから」  どこかで聞いた言葉だった。  どこかで見た状況だった。  それは「こわい」と目を背けて逃げる奏を、追いかけ続けた仁の言動だ。  奏の声は今にも泣きそうだった。仁の拳を包む手が震えている。小さな体が強張っている。  それでも、少し緊張している唇の端を、そっと持ち上げて得意げな笑みを見せた──仁の笑い方と同じだけれど、その眩しさに仁は目を細めた。  心臓が握り潰されたかのように痛む。  苦しさで息の仕方も忘れそうだ。  気付いてしまった。 「ああそうか……だめなのは俺か……俺の方だったんだな。俺の調律(ピアノ)じゃ、お前の音は完璧にならない……」 「えっ……」  この期に及んで、仁はまだ〝完璧〟を口にする。雁字搦めになった価値観が、仁自身を呪縛から解いてくれない。  仁に救われた奏の光の強さに、仁の影がより一層濃くなるのだ。 まだ雨は降っている。 仁は奏の手を振り解いた。 そうして苦しそうな顔で、仁は喫茶店を飛び出していった。 🎼Lesson24《音楽バカ》 「いいの? 貴央、仁のこと追いかけていっちゃったよ」  店内のBGMが静かで軽快なジャズに変わっている。冷めたコーヒーがふたつ。ぼんやりとそれを見ていた奏の向かい側の席に理央が移ってきた。 「……理央くん。ありがと、見守っててくれて」  理央の問いには答えず、心配をかけないよう口元だけで笑って見せる。  その健気さに、理央の心臓がきゅうと締め付けられた。 「ね、こんな時に言うのはずるいけど……俺じゃ、ダメかな?」 「えっ?」 「俺、奏くんが好きだよ。俺には仁みたいな才能はないけど……笑っていてほしい。俺が笑わせたい。奏くんのこと、仁より大事にするよ」  気を利かせて新しいコーヒーを淹れてくれたマスターが去ってから、理央はテーブルの上の奏の手に自分の手を重ねる。  仁と同じ温かさ。  仁と同じ、瞬く星に似た〝かたち〟を持ったひと。  豊かなコーヒーの香りがふわりと奏の鼻腔をくすぐった。 「そうだね、もし理央くんを好きになれたら……きっと、幸せになれるんだろうな」 「えー? ひど、その言い方だと完全に脈なしじゃん」 「ごめんね、でも俺の中の一枠は理央くんじゃない気がする」 「一枠?」  不思議そうな理央が奏の言葉を繰り返して小首を傾げる。 「……うん。たったひとり、たったひとつ……眠れない夜に思い出す人、朝起きたら一番に会いたい人、いちご飴の甘さを分け合いたい人。……どれだけ泣かされても心の真ん中に居座ってるやつ、とかね?」  奏は困ったように口元を緩める。  言葉や声音より、もっとずっと真摯に奏を想っている理央には、それ以上追求することが出来なかった。 「あーあ……俺が先に出会ってたらなぁ……でも、あんな風にストーカーする根性はなかったかもね」 「ふふ、ストーカーって。……や、待って、確かにストーカーか……」  やっと心から笑ってくれた奏の愛らしさに理央の胸は騒ぐものの、叶うことのない想いを宥めるようにそっと息を吐いた。  まだ重ねている手の小ささや、無邪気に緩む眦に庇護欲を掻き立てられる。悲しそうに伏せられる瞳、泣き出しそうに震える睫毛、細く頼りない肩。抱き締めたいと思った。傍に居たいと願った。  けれど奏は、守らなければならないほど弱くはないのだ。  仁と向かい合う毅然とした表情を思い出しながら、理央はやっとの思いで触れた熱を離した。 「……あのさ、貴央のことなんだけど。あれでも俺の可愛い弟だから悪く言いたくないんだけどさ、気を付けてね」 「気を付けるって?」 「貴央、能力者(同じ)だよ。観察してそっくりそのままコピーできる〝目〟を持ってる」  理央の言葉に、奏は驚かなかった。  むしろ腑に落ちた。  祭りの日の奏を見る〝目〟と繰り返される既視感。そして練習室で奏そっくりの音を出せた事実。 「ああ……だからか。なんか鏡を見てるみたいな瞬間があったんだ」 「そう。奏くんの表情とか動き、笑い方、弾き方、音の出し方……ぜんぶ観察したんだと思う」 「……すごい努力だなぁ」  え?と理央の険しい顔が解かれる。  大抵の人が貴央の能力を知れば嫌悪するからだ。幼い頃は、仲良くなる方法として無意識に他人の真似をし、「気持ち悪い子」だと忌避されたこともあった。 「だって俺、貴央くんより上手いんだよ。入学してから誰にも主席を譲ったことないし。……貴央くんは、俺を観察して練習を重ねてきたんだね」  奏は、批判も擁護もしなかった。  ただ貴央の生い立ちを想像し、その苦悩を想像し、そして研鑽を想像した。  賞賛も嫌悪もない、貴央という人間を認める言葉だった。  ここに貴央が居ればいいのに、と理央はぼやける視界を正すように瞬きを繰り返す。目頭が熱くなって喉の奥が狭まる感覚に上手く笑えなかった。  代わりに、柔らかな奏の笑みに眩しそうに目を細めた。 「……ッはは……貴央も、もっと早く奏くんに出会えてたらな……」 「えっ? なんで? 別に今からでも遅くないでしょ。だって俺、貴央くんのこと嫌いじゃないよ。あのプラスチックの箱みたいな音の〝かたち〟の中に、本当の貴央くんの音があるんだろうなって思うとわくわくするもん」 「ッ……ははははは! あーあ、奏くんも仁とおんなじだ。おんなじ音楽バカ! まったく……お前らお似合いだよ」  完敗だ、と声を上げて笑う理央に、奏はキョトンとした顔つきで熱いコーヒーを啜った。

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