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🎼Lesson26《崩れた地からも草木は芽吹く》
ほどなく、会場を満たすピアノの音色に、奏の表情が曇りはじめる。初めて聴く貴央のピアノの音は、奏の心を乱していった。
プラスチックの箱の〝かたち〟に収まりきらない深い悲しみと苦しみが、溢れ出しそうになっている。
「……何でこんな痛い音なの……」
音の〝かたち〟に敏感な奏にとって、それを聴き続けることは削られることと同じだった。
チクチクと肌を刺す音が、重く、さらに深く奏を貫き始める。
(でも……ちゃんと、っ、聴かなきゃ……!)
貴央の弾く悲しみが、奏の苦痛の記憶を炙り出していくようだった。
🎼Lesson27《崩れた地からも草木は芽吹く》
一方、その頃。
誰も居ない楽堂のエントランスで、仁は微かに漏れ聞こえる貴央の音の〝色〟をぼんやりと視ていた。
「やっぱり奏と似てる。同じブルー……なんだけど。この違和感、何なんだろうな」
「ばかー! まだ分かんないのかよ!」
仁のこぼれ落ちたひとりごとに突如として切り込まれた声。仁は弾かれたように顔を上げた。
怒っているのか泣いているのか、顔を真っ赤にして仁王立ちになる瑛二。そして、その後ろで様子を窺う晃が立っている。
「びっくりした……ていうか何なんだよ、意味わかんねえし」
「ほんとに分かんないのかよっ……かなぴは! かなぴの音はぁ! 早坂のためになんかないってことだよ!」
瑛二は自分の感情に追いつけていないようだった。今にも泣き出しそうな顔で、必死に支離滅裂な言葉を絞り出している。
仁は思わず、その視線から目を逸らした。
「ッ……そんなの、言われなくたって! どうせ俺はっ……!」
強く拳を握り込む。
〝完璧〟という安全地帯が崩れ去った今、瑛二の言葉が仁の胸に重く沈んでいく。不安と恐怖、自己嫌悪が次々と溢れ出して仁を苛んだ。
奏の〝色〟を思い出すたびに、自分の矮小さを思いしらされるのだ。
「かなぴは、いつだってかなぴのために弾いてるんだよっ……どんなことがあったって自分の〝音〟から逃げないの!」
瑛二は息を詰まらせる。
しゃくり上げる度に跳ねる背中を晃が黙って撫でていた。
「例えば好きな人にフラれても! そのせいで一晩中泣いても! それでも早坂と一緒に音を作りたいって……そんなのっ……!」
「ッ、俺を……俺の〝音〟を、信じてくれてるのか……」
「違ぁう! 愛だろぉ!」
「…………はあ?」
勢いを増す瑛二の熱に、じんわりと心を揺さぶられていた仁から思わず間の抜けた声が出た。
緊張していた肩から、かくん、と力が抜ける。
仁は困惑したまま晃へ視線を向けたが、晃も頭を抱えてうなだれていた。
なおも言い募ろうとした瑛二の口を晃が片手で覆い、興奮した猫を宥めるように抱き寄せてわしわしと雑に撫でている。
「……あー……早坂」
呆気に取られている仁に晃は咳払いをひとつして、穏やかに問いかける。
「いま聞こえてる音は、何色だ?」
「貴央の音? 何って……〝青〟だけど」
仁は貴央の音に耳を澄まし、怪訝そうに答えた。仁にとって〝色〟は嘘をつかない。貴央の思惑がどうであれ、視えたままが全てだ。
「じゃあ秋森の〝色〟は?」
「……え? そりゃ奏も……」
「秋森の〝色〟は、ただの〝青〟だったか?」
「……ぁ……」
静かに訊ねる晃の言葉で、仁の胸に奏の〝色〟が広がっていく。
限りなく透明に近い青。
深海から見上げたような、揺蕩う青。
突き抜ける空のように真っ直ぐ届く、青。
光をともなって仁の心に染み込んでくる──奏だけの〝色〟。
(……誰かと同じなわけ、ない)
「秋森はな、きっと傷付く覚悟をしたんだよ」
「傷付く覚悟……?」
「そう。早坂となら傷付いても構わないって……もし傷付くことになるなら、早坂とがいいって腹を括ったんだ。……お前は、どうする?」
その瞬間、ついに仁の〝世界〟が音を立てて折れた。
完璧であろうともがく仁を、奏はずっと待っていてくれた。
哀しみも苦しみも、ぜんぶ飲み込んで。
仁が、仁自身の〝音〟を取り戻せるときを、信じて傍で見ていてくれたのだ。
(奏に会いたい……! 今すぐ!)
腹の底から込み上げる激情に背中を押され、仁は弾けるように駆け出した。
「ほらぁ! だから愛だって言ってんだろぉ……っ」
「まったく……どいつもこいつも世話が焼けるなぁ」
舞台袖へと続く通路へ消えていく仁の背を見送りながら、晃は泣き崩れる瑛二を宥め、静かに安堵の息を吐いた。
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