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🎼Lesson27《拍手の音は響かない》
奏者ではない仁が、舞台袖で待機することは少ない。
一歩足を踏み入れたそこは、予想以上に張り詰めた静寂が広がっていた。
🎼Lesson27《拍手の音は響かない》
靴音ひとつ、呼吸ひとつでさえ躊躇われる。
仁がなるべく息を殺しながらスタッフの脇を通り過ぎると、暗い影の中でうずくまる奏の姿が目に飛び込んできた。
「奏……!」
小さな背中が震えている。
慌てて駆け寄ると奏の体は夏だというのに冷たく、仁の胸はギリギリと絞られた。
「……あれ……なんで……貴央くん、まだ演奏してるよ」
つい非難がましい声を上げそうになる奏を遮って、仁は衝動的に奏を抱き寄せた。
「ンなのどうだっていいから……! おいで、奏……」
あまりの存在の儚さへの焦燥。
壊れて消えてしまうのではないかという恐怖。
思ったよりもしっかりとした返答への安堵。
仁は腰が抜けたかのように、奏を搔き抱いだまま、その場に座り込んだ。
奏は不思議そうな目を向けながらも抵抗することはなく、静かに仁の腕の中で困惑している。
(こんな暗いとこでひとりで震えてんじゃねえよ……)
そうさせたのは自分だという自責の念が仁の胸を軋ませる。何も言わず、ただただ閉じ込めるかのように抱き締める仁に奏は狼狽する。けれど背中を撫でてくれる掌に気付いてふにゃりと相好を崩した。
「ぎゅってしていいなんて言ってないんだけど? ……ふふ、でも許す」
じわりと伝わる仁の掌の熱に、奏は奥歯を噛み締めて戯けてみせる。どうしても期待して騒ぐ鼓動をやり過ごそうとしながらも、額をこっそり仁の肩に擦り付けた。
「……ごめんな」
「許す、って言ったよ」
「うん……俺、馬鹿だから何も分かってなかった。今だって全部分かってるわけじゃねえけどさ……カッコ悪いよな」
「あのね、お前がカッコ悪いのなんて最初からでしょ。忘れた? ストーカーさん」
奏の柔らかに揶揄う声が、仁の心の深い場所へと落ちてくる。
守りたいと思っていた奏に、守られ甘やかされる心地良さとバツの悪さ。
仁は眉を垂れさせ、思わず笑った。
抱き締めた奏の体は、もう震えていなかった。
袖幕から見えるステージで、ようやく貴央が悲しみを音に変え終えたようだ。仁はその背を一瞥し、奏の体を支えて立ち上がる。
「奏はさ、ピアノ弾くの怖くねえの? ステージの上って独りだろ」
調律師は人前で批評されることはない。
でもピアニストは違う。
視線で、言葉で、動きで、溜息で──自分の音と価値観を品定めされる。
自分の信じた音が、誰かにとっては価値のないものだと烙印を押されるのだ。
浮かない様子の仁に、奏は一分の迷いもなく首を横に張った。
「こわくない。あそこではいつも俺の音が寄り添ってくれるから。……でも、見ててほしい。俺が戦うとこ」
仁の腕の中から離れていく奏の背は、迷いなく伸びている。ステージから漏れる光に照らされる横顔は息を呑むほど美しい。
「っ……当たり前だろ……!」
涙はかろうじて睫毛の手前で止まってくれていたが、仁の声は揺れていた。
今ならば、奏や瑛二が言っていたことが仁にも分かる気がした。
(奏の音は、奏のためにある……けど俺の音も俺だけのものだったんだな)
仁が本当に欲しかったものは、両親を模した〝完璧な透明〟ではなかった。
仁だけの、そして共鳴しあえる誰かとの、唯一無二の〝色〟だった。
◇
──雷鳴。
ハ短調の主和音が重々しく会場へ鳴り響く様子は、まさにそれだった。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲、《ピアノソナタ第8番 ハ短調 作品13──悲愴》。
苦悩と痛みが全身に重くのしかかる。やり切れない深い悲しみが聴くものを圧倒し、心臓を抉るかのようだ。
序奏部の深く沈むような音から、主部の駆け抜けるような疾走感へ。そして歌うような旋律と繊細なピアニッシモを経て、ロンドへと向かっていく。
奏の心は、同じ曲を弾いた貴央の〝かたち〟でまだ揺さぶられていた。
辛い記憶を掘り起こす幻視が、奏を刺すのだ。
けれど、奏の技術も感性も屈していない。
奏の瞳の光は、失われていない。
(悲しい、痛い、苦しい、こわい……でも、俺はまだ折れてなんかない。俺の音は、俺の傍に在る……!)
第一楽章の激情と葛藤、第二楽章の癒し、そして第三楽章──痛みを受け入れ、前へ進もうと躍動する魂の叫び。
悲しみでだけで自分の音を表現した貴央と、絶望の先に光を見出す音を響かせた奏。
予備選考に、拍手の音は響かない。
それでも奏の演奏は、聴くものすべてを希望で包んだ。
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