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🎼Lesson29《シュガーレイズドの唇が語る真髄》
長く続いた梅雨は、ようやく終わりを迎えた。
天際まで澄み切った空からは、本領発揮とばかりに陽射しが降り注いでいる。
予備選考を終えてしばしの休息──というわけにもいかず、奏を含めた数名は本選考への準備に追われていた。
「あーあ、奏くんってば容赦なく主席通過しちゃうんだもんなぁ……僕、太刀打ちできないじゃん」
「え、ぁ、う……ご、ごめん……?」
「別に謝んなくていいよ、僕も通ったし? 本選考では圧勝してあげる」
貴央が奏の向かいの席でコーヒーフロートのアイスを突ついている。
あの一件のあと、なぜか奏に懐いた貴央は、事あるごとに奏の前に現れるようになった。
今では凍てつく声の〝かたち〟は影も形もない。
「今期は僕が主席になるから。そしたらすぐ夏休みだし……遊んであげてもいいよ?」
「えっ! じゃあ海行きたい!」
「日焼けする」
「じゃ、じゃあキャンプ!」
「虫嫌い」
「うぐ……じゃ、じゃあ……っ」
「ふっ……あははっ! 嘘だよ、試験終わったら計画立てよ」
「やった!」
大体において、つん、とした態度を崩さないけれど、奏に心を許したのか今のように笑ってくれることも多い。
基本的に友達の少ない奏にとって、野良猫が懐くような貴央の振る舞いは戸惑うことも多い。けれど、その声の〝かたち〟は──貴央の「棘」は、幾分か先端が丸くなったように思う。
「それより、仁くんは大丈夫そう? 僕が君の傍に居たらボディーガードよろしく、すっ飛んできそうなのに」
仁のことは吹っ切れたのか、そうあるべきと努めているのか、アイスが混ざったコーヒーを啜りながら貴央が肩を竦めた。
「今は練習室に篭ってるよ。自分の〝音〟を探すの、思ったより大変みたいで……これから差し入れ持ってくつもり!」
奏の輝く笑顔に、貴央は小さく息を吐く。
不思議と心は凪いでいた。
「まったく……元恋敵 なのに応援したくなっちゃうんだもんなぁ。あーあ、僕も早く新しい恋見つけよーっと」
嬉しそうに差し入れの紙袋を抱えて駆けていく奏の後ろ姿を見送り、貴央は最後の一口を飲み干した。
🎼Lesson29《シュガーレイズドの唇が語る真髄》
夏休み前の練習棟は比較的静かだ。
みんな試験が終わり夏の予定に関心が移ってしまっているのか、漏れ聞こえる音は少なかった。
「あ、居た……また難しい顔してる」
一番奥まったいつもの部屋に、仁は居た。
ピアノに向かう横顔がいつにも増して真剣で、切羽詰まっているほどだった。
一度引き返そうかとも思うが、奏の手に握られたドリンクカップは既に結露していて限界だ。
「お疲れ、ちょっと休憩しない? 差し入れ持ってきたよ」
「奏……ありがとな」
重い防音扉を押し開けて顔を覗かせる奏に、仁の眉間の皺が緩む。視線が時計の針を彷徨ったあと、深い溜息とともに仁は大きく伸びをした。
「行き詰まってる?」
奏が小さなテーブルにふたり分のカフェラテを置きながら、心配そうに声をかける。
「んん……あと一押しな気がすんだけどなあ……」
難航しているようではあるが、仁の声に焦りはなかった。自己を見つめ直して新たに構築する過程は、本来なら時間をかけて練るものだが時間がそれを許してくれそうにない。
自分の持ち味を残しつつ、調律師として均一な音に仕上げなくてはならない。
主人公はあくまで演奏者なのだから。
けれど、凡庸では生き残れない。
「ね、去年の夏は? あのピアノを調律した時は何を考えてたの?」
奏が紙袋の中から分厚いサンドイッチを取り出しながら訊ねる。レタスとトマト、オリーブ、玉ねぎの土台の上にたっぷりの生ハム。それにチーズ。奏の差し入れのサンドイッチを頬張りながら、仁の頭の中は一年前に飛んでいた。
「あー……正直、ヤケクソだったからな……」
あれはピアノ科の先輩が、仁の常軌を逸した熱量に怯えて逃げ出した翌週だった。度重なる理想への挫折に、心が擦り切れて折れそうになっていた仁は重い足取りで大講堂に向かっていた。すっかり捨て鉢になったままピアノの前に座ったことを覚えている。
「何かもう……どうにでもなーれ、みたいな。あのとき、今までとは真逆の調律をした気がする」
「それじゃない?」
「えっ……どれ?」
あっけらかんと言う奏の頬が、いつの間にかドーナツで膨れている。サンドイッチを持つ手が止まり、仁は怪訝そうに片眉を上げた。
「だからさ、今までは完璧な音を再現しようとしてお父さんの調律をなぞってたんでしょ? それ、やめてみたら?」
崩れないように、逸れないように、今まで必死になって積み重ねてきたものを、すべて手放してみろと奏は言う。
それが仁の核の〝音〟なのではないか、と。
「でも……」
「あの夏のピアノはもっと自由で、もっとキラキラしてたよ……誰かさんみたいにね」
ふたつ目のドーナツに手を伸ばす奏の言葉に、仁はますます困惑の色を深めた。
理解はできるのに、長年の感覚がそれを拒む。
仁は言葉を失った。
奏はじっと仁の横顔を見つめる。眉間の皺や小さく息を詰める仕草から、仁の中で言葉にしきれない感情が揺れていることを感じ取った。
奏はその揺らぎに寄り添うように、そっと次の言葉を選ぶ。
「お父さんの技術と、お前の心が混ざったら最強じゃない?」
──心は、コピーできない。
不意に貴央の言葉がよみがえる。
「心……?」
自分を自分たらしめるものが何か、すべて崩壊したあとに残ったものが何か、仁は自分の胸に手を当てた。
痛みも苦しみも、そして愛おしさも。
どんな時でも、唯一、嘘がつけなかったもの。どれだけ裏切っても、見ないふりをし続けても、これまでずっと傍に居てくれたもの。
──自分のこころ、だ。
すとん、と何かがあるべき場所へ嵌ったような感覚だった。
仁は呆然とした。
探していたものは、こんなに近くにあったのだ。
「……ふ……ふふ……ッふは! あはははは! はー……あーあ、まさか口の周りを粉砂糖まみれにしてるヤツに気付かされるとはなあ」
唐突に笑い声を上げる仁に、奏の肩がビクッと跳ねた。シュガーレイズドを齧ろうと口を開けたまま、瞳をまん丸に見開く奏。仁はその小さな唇の端の、更に小さな砂糖を指先で摘み取る。そのまま自分の舌先で溶かして、いつも通り不敵に笑った。
「!? なっ……何して……っていうか、まみれてない!」
ばか!と響く奏の声とともに、仁は仁だけの〝色〟を取り戻した。
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