30 / 40
🎼Lesson30《咲き乱れる嵐の到来》
突き抜けるような空の青。
風はわずかに湿気を孕みながら、夏の匂いを運んでくる。
🎼Lesson30《咲き乱れる嵐の到来》
ビルの谷間に、ひときわ大きなガラス張りのホールが静かに佇んでいた。周囲には整えられた芝生と木々、噴水の水音が街の喧騒を柔らかに遮っている。
「馬子にも衣装とか言ったら怒るからな?」
共同学科試験、本選考──当日。
会場の楽屋ではライトグレーのジャケットに白シャツ、淡いブルーのネクタイを結んだ奏がむっつりとした表情で仁を睨め付けていた。
「えー? ンなこと思ってねえって! ふは、可愛い可愛い、世界一可愛い」
「顔が笑ってるんだよ……くそ、むかつく」
にやにやと緩む仁の顔は説得力に欠ける。
細身のスリーピーススーツが仁のがっしりとした体躯に添い、よく似合っていた。
奏はときめいたり腹を立てたりと忙しかった。
「心外だなあ……マジで可愛いと思ってるよ。そういう格好の奏も好き」
「……ばかだな。そういうのは好きな子に言ってやんなよ」
仁の軽口は、まだ彼に心を傾けている奏にとって喜びと残酷さと両面を併せ持って届く。どんなに互いへの理解が深まっても、距離が近付いても、結局、奏はフラれている身なのだ。
一瞬だけ瞳を曇らせた奏ではあったが、すぐに気持ちを切り替えてわざと呆れた声で返した。
「は? え? 好きな子って……奏、お前まさかとは思うけど、分かってないんじゃ──」
キョトンと目を丸くする仁。すぐに思い当たる節があったのか、ハッとした。けれど仁の言葉を遮って、透明のビー玉が床に落ちるような音の〝かたち〟が室内に満ちる。
ノックの音だった。
知り合いの顔がいくつか浮かぶ。けれど、晃も瑛二も一足先に客席に向かったし、理央は選考に残った貴央の楽屋に居るはずだ。
奏と仁は互いに顔を合わせて小首を傾げる。
「? 誰だろ……どうぞ」
入口へと足を向けた奏が声をかけると、ゆっくりとドアノブが回された──その音が、あまりにも既視感を持って仁の目の前を彩った。
「あっ!? 待った! 奏、開けんな!」
慌てて仁が飛び出し、扉を押し返そうと手を伸ばすものの、時すでに遅し。
完全に開かれた扉の向こうは──薔薇、ラナンキュラスに百合、ひまわりにハイビスカスまで咲き誇っていた。
「えっ……」
香りまで届きそうなそれらが色鮮やかな幻視であると奏が気付いた時には、ふたりの男女が意気盛んに楽屋に乗り込んできたあとだった。
「Hola! あら!? あらあらあら! あなたが奏くんね! やっと会えた! やだ、お肌つるつる! 可愛い! お人形さんみたいだわ!」
しびびび、と尾を逆立たせる猫のように驚き固まってしまった奏の頬を細い手指で撫でまわす女性。
「はっはっは! こらこら、母さん! 本番前の子を怯えさせるんじゃないよ!」
逃げ遅れた仁を易々と捕まえて、ゴーティスタイルの髭ごと頬擦りをしている背の高い男性。
「ッや、めろ! ちょ、待っ、この……! 父さん! 母さん! いい加減にしろって! ていうか奏に触んな!」
そして両手を突っぱねて抵抗しようと試みる仁の口から明かされる、衝撃の正体。
奏はようやく、金縛りが解けたかのように声を上げた。
「えっ!? ご、ご両親!?」
「やだぁ、パパとママでいいのよ?」
息子にいくら叱られようと奏を愛でることをやめない母親と、息子にいくら嫌がられようと抱き締めて頬擦りすることをやめない父親と。奏は呆気に取られて見比べる。
(た、確かに似てる……! 目元はお母さん似で、お父さんは……うう、単純にかっこいい。あいつももっと大人になったら、こんな感じになるってこと……!?)
黙ってしまった奏を親子三人で見つめている間に、奏の目元が照れたようにじわりと赤らむ。その様子を目敏く見留めた仁の片眉がぴくりと跳ねた。
「おいこら奏くん? 誰見て何考えてそんなエロい顔してんのか、詳しく聞かせてもらってもいいですかねえ?」
「なっ……!? ば、ばか! ご両親の前で変なこと言うな! 何も考えてないよ!」
嫉妬の二文字が顔面に貼り付けられている仁が父親の腕からようやく逃れ、母親の手から奏を奪い返す。べたべたと触られていた頬を両手で挟んで軽く押し潰しながら凄んでみせた。
長年、思い詰めた表情を隠すように軽薄を装ってきた仁。両親はそんな息子を黙って見守ってきたが、肩肘張っていない顔を見るのは久しぶりだった。
「……仁は、良い音に巡り会ったんだねぇ。奏くんっていう最高のパートナーの音に」
感慨深そうにしみじみと呟く父親に、仁は一瞬面食らったような表情を見せるものの、すぐに眉を開く。
「うん。でも結局、俺は父さんと母さんみたいな〝完璧な透明〟の音を奏に作ってやれなかった。……けど、不思議と悪い気分じゃないんだ」
目指していたものとは違う場所へ辿り着いてしまったが、清々しく笑みをこぼす仁の顔に憂いはない。
そんな息子の成長を目の当たりにし、両親は感動して涙のひとつでも見せる──かと思いきや、ふたりは顔を見合わせて大笑いしはじめた。
「やぁだ! パパとママだって最初からこんなんじゃないわよ! だいたい、私たちが喧嘩した日のピアノの音、〝視て〟ないの? あれは地獄よ、地獄!」
美しく整った顔をくしゃくしゃに歪めて腹を抱える母親の姿に、仁はしばし言葉を失った。どうやら〝完璧な透明〟の象徴 は、記憶の中よりずいぶん人間味のある存在だったらしい。
母親の弾ける笑い声がいくらか治まるのを待って、父親は母親の肩を抱いた。
「……仁、この世に完璧な音なんてあるのかな? 父さんはね、世界最高のピアニストだって信じてる最愛のひとに、目一杯の愛を込めて調律してるだけだ」
「ふふ…そしてそのピアニストが、目一杯の愛を込めて最高の音に仕上がったピアノを演奏しただけ。パパとママの最高傑作が、あなたにはそう見えていたのね」
抱き寄せられるまま父親の肩に寄り添う母親の表情は、地獄だ何だと大笑いしていたとは思えないほどに穏やかだった。
「あなたの言う〝完璧な透明〟はパパとママだけのものよ。仁、あなたは奏くんとどんな〝色〟を作りたいの?」
ともだちにシェアしよう!

